ひのきの棒(Lv.1)@文系博士院生の社会人

社会人として働きながら、博士課程で哲学を研究しています。専門は和辻哲郎の存在論。文系博士が生きていける社会をつくりたい。

僕が好きな関口存男の文章

こんにちは、ひのきの棒(Lv.1)です。

以前作ったプラットフォームに少しずつ人が集まっているので結構喜んでいます。

いまは各大学の研究室にメールを送っているのですが、反応を下さる先生もいるので、やってみてよかったなと思っています。

 

さて、今日は関口存男というゲルマニストの話をしようと思います。

 

そもそも「ゲルマニスト」というのはなかなか珍しい言葉です。

 彼の専門はドイツ語の文法で、ドイツ語の冠詞についてだけで3冊の大著を著している化け物中の化け物なのですが、その文体や表現が面白いことからも今でも根強い人気を(一部で)持っています。

 彼は教鞭をとっていた当時は下の名前から「ゾンダン先生」(ドイツ語のSondernもモジっている)と呼ばれていたそうです。

 ちなみに当時は大学の先生にドイツ語由来のあだ名をつけることが多かったらしく、哲学者の西田幾多郎は「デンケン先生」(”考える”を意味する”Denken”より)と呼ばれていました。

 

 僕が関口先生を知ったのは高校時代、予備校の先生に教えてもらったことがきっかけです。その先生はクザーヌスを研究していたのですが、予備校の仕事の方が好きだったので研究ではなく予備校講師の道を選びました。その人が尊敬している人の一人が「関口存男」だったのです。

 大学院に入ってしばらくすると、こんな本を書店で見つけました。

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 僕はしばらく関口存男のことを忘れてしまっていたのですが、関口先生はとにかくドイツ語をゴリゴリに習得していくことの重要性を説いていて、その姿勢の中には僕が最近サボりがちな学問全体にも通じる話があるのでいくつかご紹介したいなと思います。

※本文は現代仮名遣いに直す

 

 一つ目は関口がいう語学勉強の仕方についてです。僕は以下のような言葉が好きです。

(「ドイツ人の精神文化の真っただ中に入るためにはどうすれば良いか」という問いに答えて)

先生 読むんですね。読めるようになるんですね。いや、読めるように「なる」なんてそんな馬鹿な話はない。読めるように「してしまう」のです。 暴力手段に訴えて。ドイツ語なんてものは、そんなに合理的に順序正しくやっていたのでは、決して進歩しません。初歩がすんだら、あとは暴力手段に訴える事です。理屈に合わない、どう考えたって出来る筈のない手段で行くのが一番です。たとえば、何でも好い、対訳書でも、翻訳でも、少し自信のある人は原書で、ぐんぐんぐんぐん一日に五十頁百頁ぐらいよめるまでは、一日も欠かさずかじりつくのです。

〔……〕

先生 あなたは見台というものを知っていますか?

生徒 書物を置く見台でしょう?

先生 それが抑々の間違いです。見台というものは書物を置いてよむためのものではない。見台というのは、ドイツ語の辞書を置いておくためのものです。

〔……〕

先生 本を読みながら「傍ら」辞書を引いたりなのするから駄目なんです。辞書を引くのが主で、本を読むのは副です。辞書を引きながら、その合間合間に書物を読むのです。だから書物を眼の下に置いて、少し横の方に辞書を置いて置くなんてのはその罪万死に値する。(22‐23頁)

 

 何というか、パワフルですね。。。

 僕自身カントを読むときは「カントを読もう」と思って辞書を脇に置いてしまいますが、それだと先生に激怒されるわけで、あくまでも読むのは「辞書」じゃないといけないんですね。 

 関口存男の面白いところは、内容もさることながら、僕が省略してしまった箇所を含めて文章のリズムもあると思います。

「読むんですね。読めるようになるんですね。いや、読めるように「なる」なんてそんな馬鹿な話はない。読めるように「してしまう」のです。」

のくだりなんて少しずつリズムを伸ばしていって、最後の「してしまう」でアクセントを持ってきているあたりセンスが非常にあるなあと思います。

 

 二つ目は学問に対する姿勢に関するものです。

先生 知識欲というものは、食道楽とは違う! 何か変わった美味いものはないか……そんなのが知識欲ではない。山海の珍味を少しづつ数多くちょいちょいと舐めて見たい……そんなお上品なのは知識欲ではない。大きなカツレツを五六枚食って見たい! これが知識欲だ! (9頁)

  「ちょっと興味があるから味見したいな」なんていうものは知識欲ではなく、「不可能かもしれない」と思うものになりふり構わずかぶりつくという姿勢こそ関口が学問に重要だと考えていることが分かります。

 まあ僕自身は珍味もカツレツも食えるもんなら食いたいので、ある意味関口よりも強欲な気はしますが、手軽に教養を身に着けたいとか、他人に自慢するために物知りになりたいなんていうものと、知識欲とは根本的に異なるもので、もっと本能的な部分で欲するものだという主張には非常に見るべきものがあります。

 ここら辺の箇所は、本で言えば前半の部分なのですが、この本の副題にもなっている「ニイチェと語る」はニーチェブッダとキリストを鼎談させるというなかなか恐ろしいことをやってますし、他にも彼のドイツ語論が盛りだくさんなのでお勧めです。

 

 日々の研究につかれた方、研究の世界から少し心理的な距離をおいている感覚のある方は、この本を読んで若々しいエネルギーみたいなものを感じるといいかもしれませんね。