ひのきの棒(Lv.1)@文系博士院生の社会人

社会人として働きながら、博士課程で哲学を研究しています。専門は和辻哲郎の存在論。文系博士が生きていける社会をつくりたい。

自分のブログがえらくつまらない理由

f:id:hinokistick25:20200615175851p:plain

自画像これにしようかな

 

こんにちは、最近怠け気味のひのきの棒(Lv.1)です。

この前、Discordサーバーのメンバーと初めての飲み会(懇親会?)をしたのですが、

想定したよりも盛り上がってとても嬉しかったです。

他分野の話を聞くのも楽しいし、色々な経緯や興味があるのはやはり刺激になります。

 

本当は理系の分野も含めたいのですが、まずはコンセプトを分かりやすく、尖らせたいということもありますし、理系の方々がどのくらい必要としているのかがいまいち分からないところなので、しばらくは積極的に募集をしていくことはしません(受け入れについては完全にOKですが)

―――――――

 


さてさて、それじゃ今日は最近自分に対して感じていることを書こうかなと思います。

 

題名の通り自分で書いているものがつまらないという話ですね。

 

以前noteにあげていた時とかは結構楽しめていた感じもあったのですが、何故か最近自分で書いていてもいまいち楽しめないなと思って、せっかくならもうネタにしてやろうかと思ったのです。正直自分でも何となく理由は分かっているので、いくつか複合的な理由をほぐしてみたいなと思います。

 

理由1:「誰かに見せる」ということを変に意識しすぎている

 noteの時代は自分が身の回りのくだらないことを「とりあえず書くか」みたいな感じで書いていたし、その部分は大きく変わらないのですが、noteの方がクリエイターのためのプラットフォームということもあって、Twitterの「つぶやき」と少し近いテンションで書けていた気がします。

 書くのはどうせ自分なので、そんなプラットフォームなんかで影響を受けるものかと思っていたのですが、和辻的に言うところの「間柄によって規定されている」といった状態をまさに体験している気分です。

 他人に見せる、公開するとなると、やはりこんなブログでも少しは気を遣ってしまいますし、テーマも無難なものを選んでしまうところがあります。しかし「無難なテーマ」や「いろんな人に当てはまりそうなテーマ」というのは得てして「誰にも面白いと思われないテーマ」だと言われます。

 正直自分がここで書いたものがそれほど尖っているかというと全くそんなことはなく、最初の植松君のものくらいしか自分としてはマシなものはありません。それ以外は読み直す気が起こりません(読み直してた人がいたらすいません)

 正直僕のブログなんて大した人口が読むはずないのですが、それでも意識してしまうというのは非常に厄介で、自分で自分が嫌になってしまいます。

 SNSや会社なんかで見たこと、学術系やサービスで面白いこと、なんかを軸にもう少し掘り下げて、ちゃんと書いてた方がまだ良いんじゃないかと思っているので、今後はもう少しちゃんとやろうかなと思っています。

理由2:文章が雑

 正直な所、ブログを書くのに僕は時間をかけたくないという下心があります。僕はとにかくせっかちで、とにかく色々なことをさっさと終わらせてしまいたい性分なのですが、この性格とさっきの「無難なものを無難に書く」という悪癖が合わさり、「無難なテーマを雑に書く」という最悪の事態が生じている気がします。

 無難なテーマでも掘り下げつくしたら何か出るかもしれませんし、コロナのように話題のテーマを選んでも、それをちゃんとリサーチしていけば読み物として成立すると思います。しかしながら僕の場合は、基本的にブログを書くのに長くても1時間半くらいしかかけてこなかったので、その時間内に収まる程度のものしか書いてこなかったのです。

 Twitterなどで読まれているブログや漫画の更新頻度は、彼らがそれを生業にしているにもかかわらず、毎日更新であることは意外と少なく、むしろ数日おきにクオリティの高いものをあげている傾向があります(まああたりまえなんだけど)

 つまり彼らの場合はやはりリサーチや文章の推敲などにかなり手間暇をかけており、「時間内に収まるネタを思いつくようにする」といった発想法ではなくむしろ、「思いついたネタをとにかく時間内に書き上げる」といった方向なのだと思います。

 こうした部分を見ていると、自分のやり方の甘さというか、雑さが嫌になってきます。

 ただ僕が文章を書くときに一番乗るのは深夜なのですが、深夜にブログを書く気分になるかというと、最近は特にまったくならないので、ちょっと対策法については「焦って急いで書き上げようとしない」ということしか思いつきません。

理由3:自分の分野を活かすものを書いていない

 ある意味致命的かもしれませんが、このブログで僕ががっつり和辻や他の哲学者を扱うことは実はありませんでした。これは大分前からどうしようか考えていたところではあるのですが、正直僕が一定の領域内の哲学の話をするときと、それ以外の場合だと、神経質の度合いが100倍くらい変わります。

 口頭であれば良いですが、こうした文章の形で残すことを考えた場合には異常に時間がかかるというか、集中できる状態にまでしないと書けません。

 実は以前、アーレントの『カント政治哲学講義録』をブログで紹介しようかと思ったことがありました。しかも紹介するのはその中の「構想力」について論じている、本文だけで見れば10ページ程度の超絶短い箇所です。

 しかしながらそこの部分をやろうとしたら、演習のレジュメを作る時のように細かいところが気になってしまい、「これだったら論文書くわ!!!」とぶん投げてしまいました。

 ある意味専門家としては正しい姿勢なのかもしれませんが、「自分の特技/分野を活かす」というとき、僕の場合は本当に「活かそう」と思うと絶大なコストがかかるため、かなり難しいということがわかりました。

 一つのブログに何時間もかける習慣をつけて、こうした重たいブログも書いていくようにしないといけないのだろうとは思います。(すぐに実行出来るかは分かりませんが)

考察:承認欲求と自己形成

 「自分の書きたいものを書く」と「他人の読みたいであろうものを書く」ことをどうやってすり合わせていくのかというのは非常に難しい問題であることを感じています。

 ただもっと深刻というか個人的に気になったのは、「他人に読ませるためのものを書いているうちに、自分が純粋に書きたいものが何か分からなくなってくる」ということでした。

 別に商業作家でもないので、本来はそんなこと気にする必要もないのですが、でもこれは一般化しても結構よくあることなのではないかと思います。

 というのも、他人から承認されたいという欲求を持っている人が、その欲求をもとに行動していると、最初は「本当はこういう風にしたいけど、相手に合わせてこうしよう」といった打算があり、妥協があったと思うのですが、次第に「どうやったら相手に合わせられるのか」といったことにフォーカスするようになると自分の個性といったものがそもそも何であるかということがどんどんと曖昧になってしまいます。

 こうしたときに一つの選択肢として、「自分は何者である」ということを強引に定義してしまい、その定義した立場から物事を眺めることも可能だと思うのですが、しかしながらそれは本当に自分の自分らしさと言い切れるのかといえば、僕にはそれも違和感があります。

 かつての共同体主義あたりは「アイデンティティ」というものを中心に議論を進めていたのですが、個人的に違和感があったのはこの点でした。というのもアイデンティティというと僕としては一度「意識化(ないし対象化)し、自分のものとして同定する」というプロセスを経たものではありますが、人間を規定するのはむしろそれ以前の「Etwasナニカ」だからであり、それ自体は直接認識できないと考えているからです。(観念論的かもしれませんね)

 さて、何だか最後の「考察」の部分を掘り下げたら普通に面白いものが出来るんじゃないかという気になってきましたが、今日はこんなところにしておきましょう。