ひのきの棒(Lv.1)@文系博士院生の社会人

社会人として働きながら、博士課程で哲学を研究しています。専門は和辻哲郎の存在論。文系博士が生きていける社会をつくりたい。

修論覚え書き

 僕は修士論文の執筆時、2万字の原稿を2回ボツにして、最終的に4万字を書き上げました。

 

 いまでも覚えていますが、修士の時はかなり困り、11月くらいになっても「だめだ出来ない出来ない」と大騒ぎしていて、他の院生がまともな中間発表をしているのに僕は発表のあとに教官の研究室に呼び出されました。正直この時の絶望感はかなりのもので、この焦燥感や絶望感に比べれば仕事なんて楽なもんです。

 

 実を言えば学士論文の時は、「〇〇を証明する!その理路はこれだ!」とかなり早い段階で決まっており、文献学的なものではなく、あくまでも自分のテーゼを主張するための道具として哲学文献を使っていてまったく苦労はありませんでした。結局その卒論ではロック―カント―和辻の三人を一つの論文で扱うという暴挙に出たのですが、これについては結構自分の中で骨子が揺らぐことはなかったのです。

 学部では文献学的な色彩が弱かったため、修論の場合は練習も兼ねて最初から文献学的なものにしようと決めていたのですが、どうしてもぼんやりしたテーゼになってしまうし、当初の計画通り著作を3つ扱おうとすると、どうしても構成がスッキリと行かず複雑になってしまい、論文としてはどうしても先の見えないものとなってしまったのです。

 そんなときに僕が助けられたのはアリストテレス形而上学』でした。哲学やるなら読んでおけという話ですが、僕は学部時代の専攻も違えば、修士に入ってからもそうした古典ではなく自分の研究対象とか、ドイツ観念論周辺や倫理学関係を読んでいるばかりでアリストテレスは『二コマコス倫理学』と『政治学』以外はほぼ読んでおらず、『形而上学』も通読すらしていませんでした。

 「これじゃだめだ」と思い、後輩と読書会を設定してとにかくアリストテレスの『形而上学』だけは通読したのですが、やはりそこで気付かされたことは非常に多かったです。

 

 社会科学出身の僕としては、哲学やその他の人文科学にはどうしても苦手なものがありました。それは「テクストを研究する」という行為です。経済学をやるにあたって、ケインズの主要理論を知るのは大事ですが、ケインズのテクスト解釈をしたり、演習をすることはほぼありません。もちろんある人の理論を正確に知ることは大事ですが、その正確さを究めていくよりは現実社会と自分の理論との整合性を求めることの方が先であり、そしてその材料は統計など客観的な形で転がっているのですから、まずはそこを参照することが先になっていました。(あと普通に難解なので、それなら教科書的な理解にとどめておいて、実証研究に向かう方がコスパがよかったのです)

 そんなこともあり、僕は「○○はAと言っていると理解されているが、実際にはそうではなくてBである」というタイプの主張には何の面白みも感じなかったのです。

 

 ただ僕は改めてアリストテレスを読んでこうした浅はかな考えを反省することになりました。というのも、そもそもある人の理論の限界を探るには、その人の理論をとにかく読み込むほかに手段がないからです。(当たり前ですよね…)

 哲学上の難問を「アポリア」と言いますが、学術的な探求は基本的にこのアポリアを発見し、アポリアを解決するための仮説を立てて論証し、その論証部分の不備をまた発見して別の仮説を立てる、というものです。

 そしてこの「アポリアを発見」という第一段階からして、テクストの読み込みが必要なのです。

 逆に言えば、いまでも僕は理論のアポリアを探る以外のテクスト検討というものには大して意味を見出してはいません。その哲学者が好きだからもっと知りたいというのはよく分かりますし、それにはそれで価値があります。しかしながらそれは学的探究の本筋とは離れた興味のあり方であって、あくまでもそれを「哲学」と言いたいのならそれは理論の限界を探り、それを乗り越えるためのものでないといけないと考えています。そしてこれまでの大量の「テクスト解釈」は、これまでの先行研究がそれぞれの視座で見出してきた「ある理論の限界とそれを乗り越える方法」の集まりであり、そこで色々と議論が交わされるわけです。

 

 以上のことから僕が修論で取り組んだのは以下のような順番です

  1. 自分の視座を決め、「[哲学者]における○○とはAである」というシンプルな形(大テーゼ)に落とし込む
  2. 大テーゼを論証するための部品を決め、もっと小さなテーゼの集まりにして、それぞれを章・節に切り分けていく
  3. 自分の視座と近い人/違う人を探し、それぞれ援護/論駁する
  4. 自分の視座に従い、[哲学者]の理論の限界点を探る
  5. 自分の視座に従い、[哲学者]の理論の限界を超えるための理論を出す(これは出来なくても良い)

 こんな感じです。

 勘違いしてはいけないのは、これはあくまでも作業の順番であり、論述の順番ではないということです。

 論述の順番的には、①前書きで大テーゼと概要を示す②最初に先行研究を示す③論証の部品の中身を各章で展開する④理論の限界点を探る⑤自分の理論を出す、という順番でやると良いでしょう。

 なおここでいう「大テーゼ」については、自分の解釈を意味しており、自分の理論については学位論文の段階ではあくまでも「ついで」みたいなノリで出すと良いかと思います。あくまでもこれは文献学的な論文について自分がやったことなので、自分の提示したい理論が強くある場合には別の方式が必要になると思います。