ひのきの棒(Lv.1)@文系博士院生の社会人

社会人として働きながら、博士課程で哲学を研究しています。専門は和辻哲郎の存在論。文系博士が生きていける社会をつくりたい。

和辻倫理学の間柄は孤独をどう説明できるか

こんばんは、ひのきの棒(Lv.1)です。

今日は思い切り自分の分野の話をします。

というのも、今日の午後、以前学会でお世話になった海外の研究者の方から指摘をいただき、それが修論で書こうと思いながらも結局は論旨とはずれるので書くのをやめた内容だったので、ここに書くことにしました。

 

和辻の間柄

 和辻哲郎で有名なのは「間柄」というもので、要するに人間同士の関係を指します。ただこの「関係」と言っても、二つの物があった時に、それをつなげる線のようなものというより、そうした二者が立っている共通の地盤を指しているので、そのまま「間柄」と呼びます。

 そうした「間柄」は静止したものではありません。当然ですが、社会がずっと旧石器時代ではないのと同じで、もっとミクロに見た時、僕たちの人間関係もまた時間が経つにつれて大きく変わっていることが分かると思います。小学校時代の「間柄」と高校時代の「間柄」は大分違いますよね。そしてその間柄は僕たちを常に規定(制約)し、また僕たちも自分自身でそうした間柄を更新し続けます。つまり、組織だけが重要なわけでも、個人だけが重要なわけでもなく、両者の相互否定という動き自体が人間存在の本質なんだという話です。

 

 和辻はそうした動的な図式を講義原稿では「間柄⇒個人⇒社会(=間柄)」として描いています。間柄は僕たち人間を無意識に規定します。

 

 DVにあったり、いじめにあった人は後から「あれ、これはDVやいじめが原因でこうなったんじゃないか」とふと思うことがあると思いますが、これはまさに「間柄」から「個人」へと展開していることにほかなりません。しかし僕らはそこからさらに、DVやいじめというものをなくしたいと思って他者に対する自分の行動を変えたりします。それが「個人」から「社会」(次の段階の「間柄」)へと動いていくことなのです。

 

 この哲学はしばしば「共同体を重視している」とか「全体主義的だ」という批判を浴びました。結局「個人」が生まれても、また人間の共同体に戻っていくのだから、「個人」が軽視されているという考えです。この批判は僕は間違っていると断言しますが、理由は修論の内容で長くなるのでやめます。(笑)

 

 今回の一番の話題は、そういう風に共同体に還っていくと考えた和辻の体系の中で、人間が個人でずっと抱え続ける「孤独」は説明できるのかというお話です。

 

「共同的な地盤」と「孤独」は不可分である

 この見出しが僕のテーゼなわけですが、要するに如何なる人間も何らかの共同的な地盤に立っているということと、人間が「孤独」を抱えるということは、矛盾であるどころかむしろ不可分であるという主張です。

 例えばあなたは自分の好物であるウニを誕生日に友達に食べさせたとします。あなたは当然友達がウニを食べて喜んでくれると思っていますが、ウニを初めて食べた友達は「うっ……ごめんちょっと苦手かも……」と言ったとしましょう。この時あなたは友人関係という共通の地盤に立ちながら、その友達が自分とはやはり別の趣味嗜好を持った一人の人間であることを改めて再確認させられます。

「ああそうか、、どれだけ仲が良くてもそりゃ好みは違うよな」

と思うわけです。

 一方これが全然違うおっさんならどうでしょう。寿司屋に行って遠くのおっさんが「俺はウニ苦手なんだよなあ」と言ってるのを聞いて、同じような感情を抱くでしょうか。普通なら抱かないと思います。共通の地盤にも立っていない(まあ同じ人間ではあり、日本という土地に住んでいるという点では共通性はありますが)人が自分と違うことは何ら驚くことでもないですし、違って当たり前だと思っているからです。そのおっさんが日本人ではなくケニア人だったらなおさらそうでしょう。

 これはとても地味な例ですが、こういう風に孤独というのは本質的に共通の地盤に立つからこそ抱くものなのです。

「教室の中でみんなが仲よくしているのに、自分だけまったく話題についていけない」

これだって同じメカニズムです。

 

 和辻自身はこういう間柄における「孤独」をとりわけ論じてはおらず、普通に読んだだけなら批判が来るのも当たり前かなと思いますが、その理論を取り出して考えてみれば、一般的になされる批判が的を射ていないことが分かるかと思います。

 

 あなたがいまもし「孤独」を、「自分は誰にも理解されない」という苦しみを感じているとすれば、それはあなたが完全に違うからではありません。そうではなく、共通の地盤を共有しているからこそそうした痛みを抱えているのであり、そしてその痛みこそが次の「社会」を築くための原動力にほかならないのです。