ひのきの棒(Lv.1)@文系博士院生の社会人

社会人として働きながら、博士課程で哲学を研究しています。専門は和辻哲郎の存在論。文系博士が生きていける社会をつくりたい。

修論覚え書き

 僕は修士論文の執筆時、2万字の原稿を2回ボツにして、最終的に4万字を書き上げました。

 

 いまでも覚えていますが、修士の時はかなり困り、11月くらいになっても「だめだ出来ない出来ない」と大騒ぎしていて、他の院生がまともな中間発表をしているのに僕は発表のあとに教官の研究室に呼び出されました。正直この時の絶望感はかなりのもので、この焦燥感や絶望感に比べれば仕事なんて楽なもんです。

 

 実を言えば学士論文の時は、「〇〇を証明する!その理路はこれだ!」とかなり早い段階で決まっており、文献学的なものではなく、あくまでも自分のテーゼを主張するための道具として哲学文献を使っていてまったく苦労はありませんでした。結局その卒論ではロック―カント―和辻の三人を一つの論文で扱うという暴挙に出たのですが、これについては結構自分の中で骨子が揺らぐことはなかったのです。

 学部では文献学的な色彩が弱かったため、修論の場合は練習も兼ねて最初から文献学的なものにしようと決めていたのですが、どうしてもぼんやりしたテーゼになってしまうし、当初の計画通り著作を3つ扱おうとすると、どうしても構成がスッキリと行かず複雑になってしまい、論文としてはどうしても先の見えないものとなってしまったのです。

 そんなときに僕が助けられたのはアリストテレス形而上学』でした。哲学やるなら読んでおけという話ですが、僕は学部時代の専攻も違えば、修士に入ってからもそうした古典ではなく自分の研究対象とか、ドイツ観念論周辺や倫理学関係を読んでいるばかりでアリストテレスは『二コマコス倫理学』と『政治学』以外はほぼ読んでおらず、『形而上学』も通読すらしていませんでした。

 「これじゃだめだ」と思い、後輩と読書会を設定してとにかくアリストテレスの『形而上学』だけは通読したのですが、やはりそこで気付かされたことは非常に多かったです。

 

 社会科学出身の僕としては、哲学やその他の人文科学にはどうしても苦手なものがありました。それは「テクストを研究する」という行為です。経済学をやるにあたって、ケインズの主要理論を知るのは大事ですが、ケインズのテクスト解釈をしたり、演習をすることはほぼありません。もちろんある人の理論を正確に知ることは大事ですが、その正確さを究めていくよりは現実社会と自分の理論との整合性を求めることの方が先であり、そしてその材料は統計など客観的な形で転がっているのですから、まずはそこを参照することが先になっていました。(あと普通に難解なので、それなら教科書的な理解にとどめておいて、実証研究に向かう方がコスパがよかったのです)

 そんなこともあり、僕は「○○はAと言っていると理解されているが、実際にはそうではなくてBである」というタイプの主張には何の面白みも感じなかったのです。

 

 ただ僕は改めてアリストテレスを読んでこうした浅はかな考えを反省することになりました。というのも、そもそもある人の理論の限界を探るには、その人の理論をとにかく読み込むほかに手段がないからです。(当たり前ですよね…)

 哲学上の難問を「アポリア」と言いますが、学術的な探求は基本的にこのアポリアを発見し、アポリアを解決するための仮説を立てて論証し、その論証部分の不備をまた発見して別の仮説を立てる、というものです。

 そしてこの「アポリアを発見」という第一段階からして、テクストの読み込みが必要なのです。

 逆に言えば、いまでも僕は理論のアポリアを探る以外のテクスト検討というものには大して意味を見出してはいません。その哲学者が好きだからもっと知りたいというのはよく分かりますし、それにはそれで価値があります。しかしながらそれは学的探究の本筋とは離れた興味のあり方であって、あくまでもそれを「哲学」と言いたいのならそれは理論の限界を探り、それを乗り越えるためのものでないといけないと考えています。そしてこれまでの大量の「テクスト解釈」は、これまでの先行研究がそれぞれの視座で見出してきた「ある理論の限界とそれを乗り越える方法」の集まりであり、そこで色々と議論が交わされるわけです。

 

 以上のことから僕が修論で取り組んだのは以下のような順番です

  1. 自分の視座を決め、「[哲学者]における○○とはAである」というシンプルな形(大テーゼ)に落とし込む
  2. 大テーゼを論証するための部品を決め、もっと小さなテーゼの集まりにして、それぞれを章・節に切り分けていく
  3. 自分の視座と近い人/違う人を探し、それぞれ援護/論駁する
  4. 自分の視座に従い、[哲学者]の理論の限界点を探る
  5. 自分の視座に従い、[哲学者]の理論の限界を超えるための理論を出す(これは出来なくても良い)

 こんな感じです。

 勘違いしてはいけないのは、これはあくまでも作業の順番であり、論述の順番ではないということです。

 論述の順番的には、①前書きで大テーゼと概要を示す②最初に先行研究を示す③論証の部品の中身を各章で展開する④理論の限界点を探る⑤自分の理論を出す、という順番でやると良いでしょう。

 なおここでいう「大テーゼ」については、自分の解釈を意味しており、自分の理論については学位論文の段階ではあくまでも「ついで」みたいなノリで出すと良いかと思います。あくまでもこれは文献学的な論文について自分がやったことなので、自分の提示したい理論が強くある場合には別の方式が必要になると思います。

 

先月作った学術コミュニティにアカデミストの運営者が参加してくれました

こんにちは、ひのきの棒です。

 ここ最近少しコミュニティ人口の増加率が鈍っていたのですが、ちょっとだけ盛り返してきていまは55人くらいになりました。個人的にはまず100人を目指しています。(キリが良いですからね)最終的には1000人を超えて日本最大のプラットフォームにしていきたいのですが、まだまだ道のりは遠いですね。

 

 さて、人口が増えたとはいえまだ読書会などは始まっていないので、今後の課題は「どうやってコミュニティの活動を活発にしていくか」です。これがなかなか難しく、僕ばかり話していてもおかしいので、いまはみんながどんなチャンネルを欲しいか考えて、作ってみて、という感じです。

 そんなこんなで色々と試行錯誤していたのですが、学術研究において悩ましいのは、何も研究の中身のことばかりではないと思います。留学の費用とか、今後のキャリアのこととか、むしろ最近のアカデミアは周辺的な事柄で悩むことが多いのではないかと思うので、今回は、そうした色々な悩みについて知見を持っているであろう「アカデミスト」という学術系クラウドファンディングの会社の方(というか代表取締役!)に参加していただきました!

 

 ところで皆さんは「アカデミスト株式会社」という会社をご存じでしょうか。この会社は柴藤さんという方がPh.D.取得後に、アカデミアに別の仕方で貢献しようという考えのもとでつくった、学術専門に絞ったクラウドファンディングの会社です。(https://www.corp.academist-cf.com/

 事業を作る時にもここのクラウドファンディングを見ていると、いまどんな研究者が実用化を目指しているのか、どんな研究があるのかなどを知ることが出来るので大変参考にしています。

 すごくありがたいことに、この会社はこちらが提案のメールを送った翌日に返信をくれてすぐに検討に入ってくれました。まだスタートアップして7年くらいの若い会社で、色々な事業を展開しているのでかなり忙しいとは思うのですが、やはり流石のスピード感ですね。。。

 もう一つ提案をかけている会社もあるのですが、出版に絞っているのであまり参加のメリットは感じてもらえないのか、返信は来ていません( ノД`)

 

 もちろん僕が作ったDiscordのサーバーは読書会や研究会を目的にしてはいますが、研究における悩みとか、そういったものも集団で解決できればと思っています。もし研究者の方や院生の方は、色々と悩みなどがあれば、それを解決するために色々と考えていければと思いますので、是非御参加ください。

研究を円滑にするための大学院選び

最近毎日ブログ書いてますね、ひのきの棒(Lv.1)です。

 

 いまの時期、就活戦線も少し落ち着いて来て、大学院選びを始めないとと思っている学部生・院生さんの方が多いのではないかなと思うので、自分的に気にしておいた方がいい観点を載せておきます。

 僕は実をいうと全くそういう研究をしておらず、「京大の鴨川デルタで川を眺めたい」「鴨川の近くでのんびりと暮らしたい」と思って京大にしましたし、正直研究室も哲学系ならそんなにこだわりもなかったんですが、自分のテーマ的に一番近いことと、先生が怖くなさそうだったという理由だけで決めました(今考えるととんでもない笑)

 

 でも一つ言えるのは、朝の鴨川は本当に美しく、これだけはすべての人におすすめです。ゴミ出しのために朝早く起きても、とにかく美しいので全く嫌になりません。

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 早朝の鴨川ですが、実際に見ると空気の匂いやひんやりとした感触、鳥の声、河が静かに流れる音などが織り交ざって最高です。これだけでも京大はおすすめです(あと同志社

 

 そんなことは置いておいて、実際問題大学院を選ぶときにはいくつか見ておいた方がいいことがあるのでここにリスト化しておきます。

 

 

結構多くなってしまいましたが、これだけ見ておけばかなり院進して事故を起こす確率は非常に下がるかと思います。

 以下ではそれぞれの項目の詳細を説明しましょう。

1指導教官・研究室の専門分野・テーマ

 これは当たり前とも思われるかもしれませんが、自分が論文を提出するのは日本だと結局は指導教官で、主査の指導教官に「NO!」と言われれば何を書いても卒論は通りません。

 ですから、指導教官とあまりにかけ離れた分野をやってしまうと理解をしてもらえないことや、指導の際に適切ではないアドバイスをされてしまう確率が上がってしまいます。確かに教授は当該分野については幅広い知識を持っていますので、少し違うくらいであれば全く心配はありませんが、「本当にこの分野で合っているのだろうか」という部分についてはちゃんと吟味すべきです。*1

2指導教官の年代

 こちらは「指導教官が途中で変わる」というリスクについてです。一般的に、知識については問題ないと思いますが、教授は人格者ばかりではありませんので、「教授が変わってから折り合いが悪くなり研究が思うように進まない」といった状況に陥るのは出来るだけ避けたいです。

 ただ、たった少しであっても「この教授の下で勉強・研究したい!」という強い想いがある場合はそちらを優先して良いと思います。研究者というのは基本的に信念を曲げると死ぬ生き物でもあるので、そうした部分で無理をするとずっと後悔が残ってしまうでしょう。

3返信メールなどの文体・内容(相談メールなどを送った場合)

 もし自分の研究したいことがマッチするかを確認したい場合は、下手にネットだけで調べるのではなく、しっかりと将来の教官候補の先生に、「こういった研究をしたいのですが、そうした研究は貴研究室では指導可能でしょうか。」とちゃんと質問しましょう。先生方もわざわざ嘘をついたりはしませんから、返信の内容について疑う必要はありません。

 ただその際に、非常にぶっきらぼうでよく分からない返信をする先生や、的を射ない回答、またはそれ以前に「考える気がなさそうだな」みたいな答えをする先生がいた場合には、あまりおすすめできません。

 先生は忙しいものですが、それでも出来るだけ丁寧に答えて、この学生の研究を実りのあるものにしたいと思っているならばちゃんと返信をするものですし、そうした姿勢自体は自分が院進して研究で困っているときにモロに響いてきます。

 個人的には「院生には優しいが院生以外にはとても冷たい」という人はあまりいないと思っており、学究に携わるものには本気で応答するのが真っ当な姿です。

4同じ分野の院生の一年代あたりの人口

 大学院にどういうイメージを持っているのかは分かりませんが、基本的に大学院時代に話すのは同期や先輩・後輩です。僕自身優れた同期が何人もいたおかげで大変な刺激をもらいましたし、そもそも研究とは本質的に孤独な作業なので、そうした孤独を共有できる近しい仲間が周りにいることはメンタルを維持するためにも重要です。

 もちろん研究室にも毛色があり、一概に「多ければ多いほどいい!」とは言えませんし、何故か性格的に極端な学生ばっかり集まる研究室というのもあることにはあるのですが、そういう所についてはガチャなので諦めてください。人生は不確実性と共存するゲームなのです。

5教員の数(教授・准教授・助教授全員)

 さて、続いては「教員」の数です。研究の指導において、結構重要になるのは准教授や助教授などのメンツです。というのも、研究室にもよりますが、教授は忙しすぎて顔を出さないことが多く、実質的に指導やアドバイスを行ったり、細かいところで道に迷った子羊を導くのはこうしたバックアップ陣営であることがしばしばあるからです。

 例えばある研究室では教授が一人だけの場合なんかもありますが、そういう所は(当たり前ではありますが)困っても独力で切り抜ける覚悟をする必要があります。

 またそうでなくとも、大学院での講義において、自分と近しい分野を講義するのは自分の研究室や専門の先生なので、講義のバリエーションという意味でも准教授や助教の存在は思った以上に大きいものだと思っています。

6研究室の有無

 ここまでは割と研究室という単位が存在する前提でしたが、大学には「研究室というものがない」という大学も数多く存在します。僕はDiscordのサーバーを運営するまでは大学院生には大体研究室的なものが与えられていると勝手に思っていましたが、そんなことはありませんでした。そういう大学は授業としての「ゼミ」はあっても「研究室」を設置していません。

 もちろん自宅作業だけで進めるのが好きな人はここはあまり重要な論点ではありませんが、僕の場合は、一般的なインプットの場合は研究室で、論文が進んできて完全にブーストを入れるときは自宅で、みたいに切り替えのスイッチとして使っていました。

 研究は基本的にマラソンなので、修士の間だけであっても気分転換が出来る場所が一つでもあることや、研究室で同期や先輩たちと話すのは非常に有益です。カフェなどだと、「連絡⇒待ち合わせ」というプロセスが必要ですが、研究室の場合はそういう余計なプロセスがいらないし、そもそもは研究のための場所なので、勉強に集中したい場合にはお互いに不干渉でいられるので非常に気楽です。(店員に話しかけられたりするのが苦手)

 なお、文学研究科には研究室があっても法学研究科には存在しない、みたいなケースもザラにあるので、例えば専門を変える場合などは特に注視しておきましょう。

7大学・研究室の入構時間

 特に国公立から私立に行く人などに注意して欲しいのですが、「どの大学も24時間開いている」とは絶対に思わないでください。大学を開けるためには警備員を雇用したり電気代のコストがかかるため、私大だと24時間開いていないことがほとんどです。

 こういう事柄は大学内部の人間はそれぞれ「当たり前」だと思って生活しているのでウェブサイトにのっけていない場合も多いですが、「〇〇大学 入構 時間」とか調べると意外と出てきます。あとこれでも出てこないときは、逆に「○○大学 入構 禁止」とかを検索すると出てくることもあります。東大京大は24時間開いていますが、それ以外については確認しておきましょう。

 大学で作業をしていると時間はすぐに経つので、20時に入構時間が終わるとかだと大変面倒です。研究が盛り上がってきたときに打ち切られるのはストレス以外の何ものでもありませんし、僕もM1の頃とかは2時くらいまで残って色々やって、深夜に煙草吸って帰るみたいな生活をしていました。

 もし家と研究室の二か所を拠点に研究したい人は、こういう細かい部分も確認しておくと一切後悔がありません。

8カバーしている分野の広さ(アカポス狙いの場合)

 僕はアカポスに興味ありませんが、まだアカポスを狙う方はかなり多いと思います。そういう方は「この研究室で博士を取ったら、どんな授業を担当できるだろう」というのは想定しておきましょう。

 例えば僕の場合は「日本哲学」という異常に狭い範囲で、そもそも日本で開講している大学が他にはないため就職には向きません。逆に倫理学などであれば、「倫理学」も「哲学」も対象の国によっては「語学」も行けるかもしれません。こうしたように、同じ「博士」でもその学位によってどれくらいの種類の講義を持てるのかは変わってきます。

 もしアカポスを狙うのであれば、ある程度の打算性も必要となるでしょうし、そうした観点については院進する前に考えてみると良いでしょう。またはその研究室のOB/ODがどこで何を教えているのかをネットで調べるとよいと思います。

 ちなみに個人的に、語学に強いのは文学(詞・韻文)>文学(散文)>哲学かなと思っています。京大の独文とかは修論が基本的にドイツ語(D進する人限定)だったりするのでかなり強いでしょうね。

9その土地が好きかどうか

 人によっては僕のように「ここで住みたい!」みたいな動機で大学院を選ぶ場合もあるかと思いますが、そういう場合はもうそこに行っちゃいましょう。この理由はさっきもあげましたが、研究者を目指そうとする人は基本的に衝動に従った方が後悔がないと思います。「やる後悔よりやらなかった後悔」みたいな言葉もありますが、僕はこれに結構従って生きているので、個人的には「好き」という想いがあるなら突き進んだ方が良いと思います。

おわりに

 本当に申し訳ないことに、えらい長くなってしまいました。。ちょっと神経質な方の性格が出てしまったかもしれませんが、僕がいま考えて思いつくのはこのくらいです。

 大学院に行って人生台無しになったとか、メンタルぶっ壊れたとか、そういう事態は事前の調査で結構避けられるとも思いますので、以上の部分については見ておくと良いかもしれません。

 

*1:※例えば僕の場合は「権利」に関するものを着地点に置きたかったので、存在論か、政治哲学か、法哲学か、政治思想なのかという部分で非常に悩みました。

メンタルが疲れた時に好きだったヨガのポーズと般若心経

ここ最近ブログの更新頻度が少し上がっているひのきの棒です。

さて、今回は僕が昔メンタルが大分弱った時に気に入ったヨガのポーズとBGMを紹介します。

 

 正直いまは少し遅い時期な気もしますが、春から夏にかけて、そして夏から冬にかけての季節の変わり目は気温や天気が安定せず、身体にも負担がかかるためにメンタルがやられやすい時期で、こうした時期にメンタルをどうやって健康な状態で切り抜けるのかが重要です。

 メンタルがやられると研究は手につかないですし、何より日常生活が非常にキツいので、少しでも役に立てればなと思ったからです。ちなみにもし少し広い家であればスマホで無料のヨガアプリとかもあるので使ってみるとおすすめです。

 普通のブログっぽく「3位はなんと・・・・○○のポーズ!」とかやってもいいんですが、冗長でウザいのでやめます。

 

深呼吸がしやすい「チャイルドポーズ」

 さて、みなさんは「チャイルドポーズ」ってご存じですか?下の画像みたいなポーズなのですが(詳しいやり方はここに載ってました⇒woman.mynavi.jp/article/190711-3/)、やり方としては、

「正座をする」⇒「膝を横に開く」⇒「腕を伸ばして膝の間に上半身を倒す」

っていうシンプルなものです。

 

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  この姿勢の良いところは何よりも「呼吸するときに一切のストレスがない」というところで、試してみると分かりますが、息を吸って吐く度に「おお、おなかが膨れている……おお…今度はへこんでいる…」と体感できます。

 一般に、息をゆっくり深く吐くと副交感神経が働きストレスが軽減されるというのが通説らしいのですが、この姿勢だとゆっくり深呼吸出来るので大変リラックスできます。(「同じ分だけ息吸うんだったら同じじゃね?」とか言わないでくださいね。)

 とにかく、一回やってみてください。これはマジでいいです。

 

僕が気に入ったBGM:般若心経合唱10回ループ

 続いては、そうしたヨガをするときの環境についてです。

 メンタルがきついときにロックとか激しい音楽は逆効果なのでやめましょう(というか聴けなくなります)。むしろそういうときは優しい音楽か、恍惚とするタイプの音楽の方がいいです。

 「恍惚とするタイプの音楽って何?」って話ですが、個人的には教会音楽のように宗教的なものはそういう要素が強いと思っており、中世期の教会音楽とか、お経とかを聴いているとめちゃめちゃいい感じになります。

 その中でも僕が好きなのはこれです。

https://www.youtube.com/watch?v=a4vmA9noFXo

 大人数の坊主が「般若心経」を合唱しているのを10回ループしているだけの音楽(?)なのですが、これを大音量で流しながらさっきの「チャイルドポーズ」で深呼吸して瞑想するとかなり落ち着きます。

 ちなみに余談ですが、これ特定の人には人気なのかなんと再生回数657万回という記録をたたきだしています(笑)

まとめ

 今回はメンタル的な部分に焦点を当てつつ自分の好きだったものを紹介しておりますが、普通に朝にヨガとかやるのは健康的にもおすすめです。

 僕自身は「Yoga : Down Dog」っていうアプリを入れているんですが、他にも最近だとオンラインサービスが充実しているので、これを機に初めてみてもいいかもしれませんね。

 ちなみにですが、ヨガは結構最初の方は身体が固くて思ったよりハードですので無理はしないようにしましょう。

思索の試作:属性による不平等を批判する難しさについて

お久しぶりです、ひのきの棒(Lv.1)です。

 

この度は属性による不平等を批判するときの難しさについて日ごろ思っていることを書こうかと思います。

 例えば僕は男性なのですが、昨今は医学部入試で女性が不当に点数を下げられていたり、就職で不利にされていたりという報道がなされています。僕自身こうしたことが起こるのは非常に嫌悪感を抱きますし、こうした差別構造を利用する男性が一部にいることも事実なのだろうと思いますが、今回はこうした事態について「いかに批判すれば良いのか」ということを少し考えてみたいと思います。

 しばしば陥りがちなのは、こうした事例について、「だから男性はクソ!」と言ってしまうパターンです。自身が実際に嫌な男性に会った経験のある人などは特にこうした反応を示すのであろうと予想されますが、「何らかの理由により男性優位に作られてしまった社会構造」を批判することと、「現在優位にある男性自体」を批判することは区別しないといけません。

 そもそもここでの「優位とは何か」というものも難しいですが、ここでは一般的に給与に落とし込んでおくと議論が散漫にならないので、今回はそうしようと思います。

 

 例えば次の図を見てみましょう。これはいわゆる「M字カーブ」と呼ばれるものですが、文字通り「結婚」「出産」の時期に女性の就業者人口が落ち、またそれから就業者に戻っていくことをあらわしています。

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 いまでは大分改善はされていますが、やはりM字という部分がなくなるわけではありません。またさらに問題なのは、右肩で「就業者」は増えていますが、そのうちの「非正規雇用」の割合は大幅に増加しており賃金の上昇率は男性と比べて圧倒的に低いことです。

 

 さて、少しわき道に逸れた感もありますが、こうした構造を批判するときに男性という「属性」を批判することは妥当でしょうか?

 ここで誤った批判をしてしまう方は、「男なんて本当は仕事出来ないのに」みたいな方向に行ってしまうわけですが、それだと逆差別につながってしまうわけで、そこにはブレーキをかけないといけないわけです。

 一般的にこうした「制度」というのは一種の時代的に制約された中での合理性に基いており、そこからルールを一変させるためのトリガーがなかったために保持されてしまったという色合いが強く、ある属性に「生まれてきてしまった」という点では変わらない男性を、その属性を焦点に当てて批判してしまうのは差別と同じになってしまうのであり、そこをクリアしつつも構造を批判するというのは実は難しいことなのです。

 例えばきわどい批判として、「あなたは男性が優遇された医学部入学試験で受かっただけであり、女性の医者の方が平均的には優秀だろう」という推論は、(役に立つとは思えませんが)差別とは言い切れません。しかしながらこれを「男性の医者は優遇されていた人たちばかりだからクソ」といってしまうと差別のゾーンに入ってしまうと思います。

 しかしながら一方で、女性は「女性である」というだけで一定の不利益を被っているのであり、これは完全に差別ですし不満を抱くのは当然なので、そうした不利益に怒りを覚えた時にいわば「やり返す」ことをしたくなる気持ちは理解できます。が、これをやってしまうと同じ土俵に立ってしまい正確な批判ではなくなってしまうのです。

 いわゆる「フェミニズム」の思想が一般に広がり「ツイフェミ」(※TwitterというSNSに見られるフェミニストの意味で、侮蔑的に使われる)と呼ばれる界隈を生んだことにはこうした批判の難しさ、理性と感情との折り合いのつけ難さがあると思います。

 

 こうした事態は何もフェミニズムに限ったことではなく、あらゆる差別的構造について言えることです。そして我々が何かを批判するときに、「不平等によって利益を享受している人」と「不平等の構造」を安易に結びつけることはしてはいけないのです。(もちろんそれを意図的に利用している場合、その内面を道徳的観点から批判するのは可能だと思いますが)

 

 

思索の試作:実践的な「跳躍」について―理論的/実践的観点における「世界」

我々は常にリスク下に置かれている。

 

 それは「料理をしていたら指を切る」とか「人ごみに出かけて風邪をうつされる」とかそういうものだけではなく、例えばいきなり居眠り運転の車にひかれるとか、歩いていたら地盤が崩れ落ちて生き埋めになるとか、普段なら意識も何もしない無数の「リスク」を含めている。

 さて、我々は日常生活においてそうした大半のリスクを気にしてはいないわけだが、それはいったいどうしてであろうか。一つに我々が処理できる情報量の限界があることが挙げられる。10のリスクだけを考えたとしても、それをやはり四六時中考え続けることは困難だし、移動のたびにリスク計算をして生きることは不可能に近い。

 またそれ以外にも日常生活への支障という点も挙げられる。例えば厳密に計算したら0.001%になるリスクまでも考慮しながら日常生活を送っていたら我々はどうなるであろうか。その場合、街はとても出歩けないし、ヒアリに刺される恐怖でベッドに寝ていることもおぼつかないだろう。買い物を注文しても、変な配達員に刺されるかもしれない、外に出ても通り魔に刺されるかもしれない、家に潜んでいても窓を割られるかもしれない、こうしたリスクはいくらでも挙げることが出来る。

 こうして日常的な些細な事柄にまで普段から不安を覚えているものは、一般に「不安障害」などとも言われるが、そもそもこれはなぜ「障害」と呼称されるのかと言えば、それが生活に支障をきたすと考えられているためであり、裏を返せば我々の生活はこうしたリスクを切り捨てることで成り立っているのである。

 その点で我々が普段生活している「世界」とは常にこうした些細な可能性を排除した、「大体こうなるだろう」という予測を含んだ「世界」に他ならない。

 

 さて、我々が現在の認識対象から見出すところの「世界」とは何であろうか。それはおよそベイズの推論において最も確率の高いものを採用するが如く、「こうなるであろう」といった事柄を過去の事象をもとに無意識的に予測し、またそれ以外のものを切り捨てる事で成り立つものであるが、本来世界を可能な限り客観的に捉えるのであれば、そうした「切り捨て」というものは無駄に可能的世界の候補を減らし予測を誤ったものにする可能性を増幅させる行為に他ならないのである。

 しかしながら我々は実際に生活を送るにあたり、こうした「切り捨て」から逃れることは出来ないし、これを逃れようともがく者は、日常生活どころか存在にすら恐怖を覚えざるを得ず、つまりは逆説的に死に至らざるを得ない。

 

 上記のことから筆者が言いたいことは、我々が生きている世界というものはある意味で「実践的」なものであり、「理論的」な世界から常に跳躍したものであるということである。なお、理論/実践の区別で最初に思いつくのはカントであろうし、筆者もそれを念頭に置いてはいるものの、この論考はもはやそれとは大きくかけ離れたものであろう。

 我々はこうした「跳躍」ないし「リープ」からは逃れられないし、そうした「リープ」を考慮しない存在論とは実在的ではあれ現実的なものとはいいがたい。言い換えれば、我々は常にこの重層関係を見つめながら、事物の存在を探求せねばならないのであり、その「跳躍」を理論的な基礎に置くことによってはじめて「「我々が生きている世界」とは何であるか」という問いに答える基礎を得るのである。

 

 結論として、筆者は以下のにゃんがーどのねこが可愛いと思っている。(飛躍)

自分のブログがえらくつまらない理由

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自画像これにしようかな

 

こんにちは、最近怠け気味のひのきの棒(Lv.1)です。

この前、Discordサーバーのメンバーと初めての飲み会(懇親会?)をしたのですが、

想定したよりも盛り上がってとても嬉しかったです。

他分野の話を聞くのも楽しいし、色々な経緯や興味があるのはやはり刺激になります。

 

本当は理系の分野も含めたいのですが、まずはコンセプトを分かりやすく、尖らせたいということもありますし、理系の方々がどのくらい必要としているのかがいまいち分からないところなので、しばらくは積極的に募集をしていくことはしません(受け入れについては完全にOKですが)

―――――――

 


さてさて、それじゃ今日は最近自分に対して感じていることを書こうかなと思います。

 

題名の通り自分で書いているものがつまらないという話ですね。

 

以前noteにあげていた時とかは結構楽しめていた感じもあったのですが、何故か最近自分で書いていてもいまいち楽しめないなと思って、せっかくならもうネタにしてやろうかと思ったのです。正直自分でも何となく理由は分かっているので、いくつか複合的な理由をほぐしてみたいなと思います。

 

理由1:「誰かに見せる」ということを変に意識しすぎている

 noteの時代は自分が身の回りのくだらないことを「とりあえず書くか」みたいな感じで書いていたし、その部分は大きく変わらないのですが、noteの方がクリエイターのためのプラットフォームということもあって、Twitterの「つぶやき」と少し近いテンションで書けていた気がします。

 書くのはどうせ自分なので、そんなプラットフォームなんかで影響を受けるものかと思っていたのですが、和辻的に言うところの「間柄によって規定されている」といった状態をまさに体験している気分です。

 他人に見せる、公開するとなると、やはりこんなブログでも少しは気を遣ってしまいますし、テーマも無難なものを選んでしまうところがあります。しかし「無難なテーマ」や「いろんな人に当てはまりそうなテーマ」というのは得てして「誰にも面白いと思われないテーマ」だと言われます。

 正直自分がここで書いたものがそれほど尖っているかというと全くそんなことはなく、最初の植松君のものくらいしか自分としてはマシなものはありません。それ以外は読み直す気が起こりません(読み直してた人がいたらすいません)

 正直僕のブログなんて大した人口が読むはずないのですが、それでも意識してしまうというのは非常に厄介で、自分で自分が嫌になってしまいます。

 SNSや会社なんかで見たこと、学術系やサービスで面白いこと、なんかを軸にもう少し掘り下げて、ちゃんと書いてた方がまだ良いんじゃないかと思っているので、今後はもう少しちゃんとやろうかなと思っています。

理由2:文章が雑

 正直な所、ブログを書くのに僕は時間をかけたくないという下心があります。僕はとにかくせっかちで、とにかく色々なことをさっさと終わらせてしまいたい性分なのですが、この性格とさっきの「無難なものを無難に書く」という悪癖が合わさり、「無難なテーマを雑に書く」という最悪の事態が生じている気がします。

 無難なテーマでも掘り下げつくしたら何か出るかもしれませんし、コロナのように話題のテーマを選んでも、それをちゃんとリサーチしていけば読み物として成立すると思います。しかしながら僕の場合は、基本的にブログを書くのに長くても1時間半くらいしかかけてこなかったので、その時間内に収まる程度のものしか書いてこなかったのです。

 Twitterなどで読まれているブログや漫画の更新頻度は、彼らがそれを生業にしているにもかかわらず、毎日更新であることは意外と少なく、むしろ数日おきにクオリティの高いものをあげている傾向があります(まああたりまえなんだけど)

 つまり彼らの場合はやはりリサーチや文章の推敲などにかなり手間暇をかけており、「時間内に収まるネタを思いつくようにする」といった発想法ではなくむしろ、「思いついたネタをとにかく時間内に書き上げる」といった方向なのだと思います。

 こうした部分を見ていると、自分のやり方の甘さというか、雑さが嫌になってきます。

 ただ僕が文章を書くときに一番乗るのは深夜なのですが、深夜にブログを書く気分になるかというと、最近は特にまったくならないので、ちょっと対策法については「焦って急いで書き上げようとしない」ということしか思いつきません。

理由3:自分の分野を活かすものを書いていない

 ある意味致命的かもしれませんが、このブログで僕ががっつり和辻や他の哲学者を扱うことは実はありませんでした。これは大分前からどうしようか考えていたところではあるのですが、正直僕が一定の領域内の哲学の話をするときと、それ以外の場合だと、神経質の度合いが100倍くらい変わります。

 口頭であれば良いですが、こうした文章の形で残すことを考えた場合には異常に時間がかかるというか、集中できる状態にまでしないと書けません。

 実は以前、アーレントの『カント政治哲学講義録』をブログで紹介しようかと思ったことがありました。しかも紹介するのはその中の「構想力」について論じている、本文だけで見れば10ページ程度の超絶短い箇所です。

 しかしながらそこの部分をやろうとしたら、演習のレジュメを作る時のように細かいところが気になってしまい、「これだったら論文書くわ!!!」とぶん投げてしまいました。

 ある意味専門家としては正しい姿勢なのかもしれませんが、「自分の特技/分野を活かす」というとき、僕の場合は本当に「活かそう」と思うと絶大なコストがかかるため、かなり難しいということがわかりました。

 一つのブログに何時間もかける習慣をつけて、こうした重たいブログも書いていくようにしないといけないのだろうとは思います。(すぐに実行出来るかは分かりませんが)

考察:承認欲求と自己形成

 「自分の書きたいものを書く」と「他人の読みたいであろうものを書く」ことをどうやってすり合わせていくのかというのは非常に難しい問題であることを感じています。

 ただもっと深刻というか個人的に気になったのは、「他人に読ませるためのものを書いているうちに、自分が純粋に書きたいものが何か分からなくなってくる」ということでした。

 別に商業作家でもないので、本来はそんなこと気にする必要もないのですが、でもこれは一般化しても結構よくあることなのではないかと思います。

 というのも、他人から承認されたいという欲求を持っている人が、その欲求をもとに行動していると、最初は「本当はこういう風にしたいけど、相手に合わせてこうしよう」といった打算があり、妥協があったと思うのですが、次第に「どうやったら相手に合わせられるのか」といったことにフォーカスするようになると自分の個性といったものがそもそも何であるかということがどんどんと曖昧になってしまいます。

 こうしたときに一つの選択肢として、「自分は何者である」ということを強引に定義してしまい、その定義した立場から物事を眺めることも可能だと思うのですが、しかしながらそれは本当に自分の自分らしさと言い切れるのかといえば、僕にはそれも違和感があります。

 かつての共同体主義あたりは「アイデンティティ」というものを中心に議論を進めていたのですが、個人的に違和感があったのはこの点でした。というのもアイデンティティというと僕としては一度「意識化(ないし対象化)し、自分のものとして同定する」というプロセスを経たものではありますが、人間を規定するのはむしろそれ以前の「Etwasナニカ」だからであり、それ自体は直接認識できないと考えているからです。(観念論的かもしれませんね)

 さて、何だか最後の「考察」の部分を掘り下げたら普通に面白いものが出来るんじゃないかという気になってきましたが、今日はこんなところにしておきましょう。