ひのきの棒(Lv.1)@文系博士院生の社会人

社会人として働きながら、博士課程で哲学を研究しています。専門は和辻哲郎の存在論。文系博士が生きていける社会をつくりたい。

思索の試作:属性による不平等を批判する難しさについて

お久しぶりです、ひのきの棒(Lv.1)です。

 

この度は属性による不平等を批判するときの難しさについて日ごろ思っていることを書こうかと思います。

 例えば僕は男性なのですが、昨今は医学部入試で女性が不当に点数を下げられていたり、就職で不利にされていたりという報道がなされています。僕自身こうしたことが起こるのは非常に嫌悪感を抱きますし、こうした差別構造を利用する男性が一部にいることも事実なのだろうと思いますが、今回はこうした事態について「いかに批判すれば良いのか」ということを少し考えてみたいと思います。

 しばしば陥りがちなのは、こうした事例について、「だから男性はクソ!」と言ってしまうパターンです。自身が実際に嫌な男性に会った経験のある人などは特にこうした反応を示すのであろうと予想されますが、「何らかの理由により男性優位に作られてしまった社会構造」を批判することと、「現在優位にある男性自体」を批判することは区別しないといけません。

 そもそもここでの「優位とは何か」というものも難しいですが、ここでは一般的に給与に落とし込んでおくと議論が散漫にならないので、今回はそうしようと思います。

 

 例えば次の図を見てみましょう。これはいわゆる「M字カーブ」と呼ばれるものですが、文字通り「結婚」「出産」の時期に女性の就業者人口が落ち、またそれから就業者に戻っていくことをあらわしています。

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 いまでは大分改善はされていますが、やはりM字という部分がなくなるわけではありません。またさらに問題なのは、右肩で「就業者」は増えていますが、そのうちの「非正規雇用」の割合は大幅に増加しており賃金の上昇率は男性と比べて圧倒的に低いことです。

 

 さて、少しわき道に逸れた感もありますが、こうした構造を批判するときに男性という「属性」を批判することは妥当でしょうか?

 ここで誤った批判をしてしまう方は、「男なんて本当は仕事出来ないのに」みたいな方向に行ってしまうわけですが、それだと逆差別につながってしまうわけで、そこにはブレーキをかけないといけないわけです。

 一般的にこうした「制度」というのは一種の時代的に制約された中での合理性に基いており、そこからルールを一変させるためのトリガーがなかったために保持されてしまったという色合いが強く、ある属性に「生まれてきてしまった」という点では変わらない男性を、その属性を焦点に当てて批判してしまうのは差別と同じになってしまうのであり、そこをクリアしつつも構造を批判するというのは実は難しいことなのです。

 例えばきわどい批判として、「あなたは男性が優遇された医学部入学試験で受かっただけであり、女性の医者の方が平均的には優秀だろう」という推論は、(役に立つとは思えませんが)差別とは言い切れません。しかしながらこれを「男性の医者は優遇されていた人たちばかりだからクソ」といってしまうと差別のゾーンに入ってしまうと思います。

 しかしながら一方で、女性は「女性である」というだけで一定の不利益を被っているのであり、これは完全に差別ですし不満を抱くのは当然なので、そうした不利益に怒りを覚えた時にいわば「やり返す」ことをしたくなる気持ちは理解できます。が、これをやってしまうと同じ土俵に立ってしまい正確な批判ではなくなってしまうのです。

 いわゆる「フェミニズム」の思想が一般に広がり「ツイフェミ」(※TwitterというSNSに見られるフェミニストの意味で、侮蔑的に使われる)と呼ばれる界隈を生んだことにはこうした批判の難しさ、理性と感情との折り合いのつけ難さがあると思います。

 

 こうした事態は何もフェミニズムに限ったことではなく、あらゆる差別的構造について言えることです。そして我々が何かを批判するときに、「不平等によって利益を享受している人」と「不平等の構造」を安易に結びつけることはしてはいけないのです。(もちろんそれを意図的に利用している場合、その内面を道徳的観点から批判するのは可能だと思いますが)