ひのきの棒(Lv.1)@文系博士院生の社会人

社会人として働きながら、博士課程で哲学を研究しています。専門は和辻哲郎の存在論。文系博士が生きていける社会をつくりたい。

思索の試作:実践的な「跳躍」について―理論的/実践的観点における「世界」

我々は常にリスク下に置かれている。

 

 それは「料理をしていたら指を切る」とか「人ごみに出かけて風邪をうつされる」とかそういうものだけではなく、例えばいきなり居眠り運転の車にひかれるとか、歩いていたら地盤が崩れ落ちて生き埋めになるとか、普段なら意識も何もしない無数の「リスク」を含めている。

 さて、我々は日常生活においてそうした大半のリスクを気にしてはいないわけだが、それはいったいどうしてであろうか。一つに我々が処理できる情報量の限界があることが挙げられる。10のリスクだけを考えたとしても、それをやはり四六時中考え続けることは困難だし、移動のたびにリスク計算をして生きることは不可能に近い。

 またそれ以外にも日常生活への支障という点も挙げられる。例えば厳密に計算したら0.001%になるリスクまでも考慮しながら日常生活を送っていたら我々はどうなるであろうか。その場合、街はとても出歩けないし、ヒアリに刺される恐怖でベッドに寝ていることもおぼつかないだろう。買い物を注文しても、変な配達員に刺されるかもしれない、外に出ても通り魔に刺されるかもしれない、家に潜んでいても窓を割られるかもしれない、こうしたリスクはいくらでも挙げることが出来る。

 こうして日常的な些細な事柄にまで普段から不安を覚えているものは、一般に「不安障害」などとも言われるが、そもそもこれはなぜ「障害」と呼称されるのかと言えば、それが生活に支障をきたすと考えられているためであり、裏を返せば我々の生活はこうしたリスクを切り捨てることで成り立っているのである。

 その点で我々が普段生活している「世界」とは常にこうした些細な可能性を排除した、「大体こうなるだろう」という予測を含んだ「世界」に他ならない。

 

 さて、我々が現在の認識対象から見出すところの「世界」とは何であろうか。それはおよそベイズの推論において最も確率の高いものを採用するが如く、「こうなるであろう」といった事柄を過去の事象をもとに無意識的に予測し、またそれ以外のものを切り捨てる事で成り立つものであるが、本来世界を可能な限り客観的に捉えるのであれば、そうした「切り捨て」というものは無駄に可能的世界の候補を減らし予測を誤ったものにする可能性を増幅させる行為に他ならないのである。

 しかしながら我々は実際に生活を送るにあたり、こうした「切り捨て」から逃れることは出来ないし、これを逃れようともがく者は、日常生活どころか存在にすら恐怖を覚えざるを得ず、つまりは逆説的に死に至らざるを得ない。

 

 上記のことから筆者が言いたいことは、我々が生きている世界というものはある意味で「実践的」なものであり、「理論的」な世界から常に跳躍したものであるということである。なお、理論/実践の区別で最初に思いつくのはカントであろうし、筆者もそれを念頭に置いてはいるものの、この論考はもはやそれとは大きくかけ離れたものであろう。

 我々はこうした「跳躍」ないし「リープ」からは逃れられないし、そうした「リープ」を考慮しない存在論とは実在的ではあれ現実的なものとはいいがたい。言い換えれば、我々は常にこの重層関係を見つめながら、事物の存在を探求せねばならないのであり、その「跳躍」を理論的な基礎に置くことによってはじめて「「我々が生きている世界」とは何であるか」という問いに答える基礎を得るのである。

 

 結論として、筆者は以下のにゃんがーどのねこが可愛いと思っている。(飛躍)