「インフルエンサー」と「情報の正しさ」の話
働いてみて改めて感じたのが、民間企業における芸能人やインフルエンサーの影響力である。でも彼らをただ手放しに評価するのはあまりにも僕の考えとは違うし、今後のビジネスは彼らといかに上手く距離感を保てるのかにあるのではないかと思っているので、今日はそれについて書こうと思う、。
企業が何かサービス・製品を出したとしても何もしなければ恐らくほとんどの人の目にも付かない。そもそも誰もその存在を認識しないからだ。企業にとって存在を認識されないことは「存在しないこと」と同じであり、それ故企業は認識されるためにマーケティングをし、色々な経路で広告を出したりお金を払って誰かを広告塔にする。この時広告塔になるのが「インフルエンサー」だ。
「インフルエンサー」の意味
インフルエンザにしか聞こえないこの妙な言葉は、英語の"influence"(影響力,影響を及ぼす)という単語から来ていて、「影響力を持つ人」という意味で使われる。僕も知らなかったが、一応和製英語ではなくまともな英語らしい。ただこれはおそらく向こうのビジネスマンが使い始めたもので、それほどフォーマルではないとも思える。
日本で使われ始めたのがいつからなのか気になったので調べてみると、2017年の2月下旬あたりに急増し、それから一定の波を経て日常的な語になったらしい。ウィキペディアには「2017年2月22日、『乃木坂46 5th YEAR BIRTHDAY LIVE』で表題曲「インフルエンサー」のタイトルが発表」とあったので、
➊乃木坂が楽曲に使用⇒➋「変な言葉...」と思いながらも記憶に定着⇒➌企業が元々の意味で使い始める⇒❹一般的な用語として定着する
ということなのだと思う。
さて、インフルエンサーは事務所に所属していない場合も多いし、それでもTwitterのフォロワーやYoutubeのチャンネル登録者数が何万、何十万人もいる一方、CMで芸能人を起用するのに比べれば安価だしファン層が特定しやすいので非常に使いやすい。
例えばAyaさんという筋トレの人はどう考えてもトレーニング系のサービスの広告塔に使えるし、Keiyamazakiさんというインスタグラマーならランチとか小麦粉系の食品の広告塔に出来る。また、彼らが「監修」などをすればそれだけで「買いたい!」という人も格段に多くなるだろう。
「影響力がある=正しい」ではない
しかしインフルエンサーを起用しようとしてる人が気を付けるべきは、彼らは「影響力が大きい」ということは確かだが、実際に正しい情報を発信しているとは限らないということだ。例えば歴史学の界隈では、「大量に本が売れているから正しい」とは言えないとみんな知っていると思う。学術的な水準としてはまったく論外なのに、文章の面白さやストーリー展開などで人気を獲得しただけの本は多く、それに歴史学者が辟易としているのは日常的に見られる構図である。そして僕は哲学に携わるものとして、こうしたインフルエンサーを手放しに評価することは断じて出来ない。
つまりインフルエンサーと言っても玉石混交で、さらに誤った情報を発信しているインフルエンサーを広告塔にすることは社会的には有害でしかないのである。その意味で、企業はそのチャネル選択においても社会的なメリット/デメリットを吟味しなければならないし、誤った人選を恥じらいもなく出来る企業は信用してはならない。そういう企業は総じて「もうかればいい」という精神だからだ。
インフルエンサーがどうしてインフルエンサーになるのかといえば、他ではやっていない分野に特化して情報を発信して一定数以上フォロワーを集め、あとはそれと類似した趣味をしている人にサジェストして人数が雪だるま式に増えていくというものが多いと思う。しかし内容がコアであればあるほど、その情報が正しいかどうかを評価できる人数は少ないし、より真っ当なコンテンツが人気を得られるとは限らない。
以前は「分からないことがあれば本を読まなくてもネットで調べればわかる」と言われていたが、それも現在では「ネットde真実」などと揶揄されるようになった。細かい検索指向性の問題は知らなくとも、ネット検索で上位に出てくる結果が信頼に足るものではないと皆分かっているのだ。
そして僕は、そろそろこうした傾向に飽き飽きしてきているのではないかと思っているし、to Cのサービスを出すにしてもこうした「人気度ではなく情報のまともなものを上位に出す」ということに価値を見出すべきではないかと思う。勿論情報の真偽の判断を自動的にするというのはまだ技術的には難しいと思うし、エンジニアでもない僕には到底想像の出来ない世界である。
しかしこれまでのプラットフォームサービスのように「質より量」で勝負するのはそろそろ終わりにする時が来たと思う。
最後に
日本人は相対主義に陥りやすい。倫理も歴史も「正しいことは一つとは限らない」といったセリフは散見されるし、学問でさえ学説が変わることは当たり前だし、僕も他の研究者もある意味では「学説を転換する」ということを一つの目標にしていることは否めない。(これは最終目標であってはならないが)
しかしながらそれには注意が必要で、例え意見が違う研究者同士であっても「これは間違っている」というコンセンサスが取れるものはある。根拠が薄弱であったり、論理に間違いがあったり、前提があまりにも恣意的であるものは「おかしい」と言われて当然であるし、そうした様々な批判を耐え抜いてきたものだからこそそもそも一つの「学説」として一つの立場を築いてきたのである。
それ故、「学問でさえ学説が変わる」といってくだらないデマ情報を容認するのは、最も馬鹿げた行為であるし、それは自らの馬鹿さ加減を言い表しているのとまったく変わらないことだと知っておくべきだと思う。