ひのきの棒(Lv.1)@文系博士院生の社会人

社会人として働きながら、博士課程で哲学を研究しています。専門は和辻哲郎の存在論。文系博士が生きていける社会をつくりたい。

僕らは植松君の批判に対して正面から向き合わねばならない

 相模原で2016年、多くの知的障碍者が殺害されるという事件があった。この事件についてのコメントは色々読んだが、それらは結局植松氏の主張に対して正面から応答したものではなく、彼の共感能力や思想の偏重ぶりを非難するものが多かった。でも哲学者であるならば、ましてや僕のような倫理学に少しでも重なる部分がある哲学者ならば、それに正面から応答せねばならないと思う。

 今回のブログは、普段の文体よりも多少固くすることを読者には覚悟していただきたい。でももしこのブログを目にしたならば、多少取っつきづらくとも自分の頭で死ぬほど考える義務が生まれると思う。それが殺害された彼らに対する敬意であり、そしてこれから同様の事件の被害者となり得る誰かのためであり、そして自らの知性に対する闘争であるからである。

 僕はこれからする話をすることを避けていた。それは僕の友達を利用し、自分の「衝撃的なエピソード」として消費し、彼を愚弄することになるのではないかと思っていたからだ。でもやはりこれは話しておこうと思う。

 僕は保育園に通っていたが、そこにはレイ君という恐らくは軽度の自閉症を持った同級生がいた。彼はいつも甲高い声を上げていて、僕は子供ながらに「変な子だな」と思っていた。そして僕は彼のことを何となく避けていた。

 保育園の最終学年になったとき、僕はクラスのいじめっこに(どういう経緯か分からないが)絡まれていた。いまでも覚えているが、そいつに首を絞められていた。僕は大して身体もでかくないので、何も出来ず苦しんでいたのだが、そこに現れたのがレイだった。

 レイは「〇〇君(僕の下の名前)をいじめるな!」と言っていた気がするが、もしかしたらこれは記憶の改ざんかもしれない。でもそういう記憶が僕には焼き付いていて、いじめっ子を僕から剥がし、そいつの髪を力いっぱい引っ張った。

 いじめっ子は驚いたのと、髪を引っ張られた痛みで僕から手を離し、そしてどっかへ消えた。僕はレイに感謝したが、何を言ったのかは覚えていない。もう20年前の話だ。

 僕は2~3年くらいレイと同じ組にいたが(一学年に一クラスだった)、初めてレイのことを見直した。「こいつはすごいやつだったんだ。」そんな素朴な感情が沸いた。これは多分夏ごろのことだった。

 

 少し経ってクリスマスになった。卒園間近だった。僕の母親が僕のことを自室に泣きながら呼んだ。子供ながらに僕は何かあったのだろうかと思いながら、両親の部屋に向かった。

 僕の母親はテレビを指した。

 レイがテレビに映っていた。

 レイが家族四人と一緒に殺されたというニュースだった。

 僕の母親は僕を抱き締めながら、僕と一緒にそのニュースを見ていた。

 僕が首を絞められているときに助けてくれたレイは、絞殺された。

 今思えばクソみたいな因果だと思う。

 この事件は調べればわかる。興味があるなら調べれば良いが、僕はそんな話をしたくてこの話を出したんじゃない。

 この犯人は今でも捕まっていないし、どうしてこの事件が起こったのかも未だに分かっていない。ただ今でも僕に残っているのは、「知的障碍を持っていた優しいあいつは家族と一緒に殺された」という情報だけだ。

 

 何年も経って植松君の事件が起きた。彼は重度の知的障碍者を二つの理由で殺した。その理由は(少しパラフレーズするが)、

障碍者には責任能力がない

障碍者は生きていても社会的な効用においてマイナスである

という理由だった。哲学的に言えば前者はカント主義的な立場からの批判であり、後者は功利主義的な立場からの批判だ。

 

 もしかしたら「何でカントなんだ?」と思うかもしれないが、現代の人権理論の根本的な原理は依然としてカントの第二批判であり、『道徳の形而上学』にあると思っている。実践理性を有しており、その(英知的な)自由(の法則)によって自己の行為の責任を持つことが出来ることが人権の根拠とされる、僕はそう解釈している。そして後者については当然ながら非常に古典的な部類の功利主義の主張であるが、その後の功利主義は基本的にカント的な義務論との折衷案に過ぎないと思う。専門の人には怒られるかもしれないが。

 さて、植松君がこの二つの観点から同時に「障碍者の人権」というものを否定したのが当の事件である。此処に於て彼が「頭がおかしい」などという非論理的な批判は役にたたないどころか全く的を射ていない。なぜならば彼は非常に論理的に思考しており、自分についてさえ「もし責任能力がないなら死刑にすべきだ」という一貫した姿勢を貫いているからだ。これは彼の論理からすれば全く矛盾がなく、非常に理性的な論展開であるとも見ることが出来る。そして僕が現代の人権理論に限界を感じた一番の原因はまさに彼の主張であった。

 

 じゃあ僕は彼の殺人行為を支持するだろうか?そんなはずはないだろう。彼の論理ならレイだって殺されるのが正当だったことにもなり得るが、そんなふざけた話はない。でも「そんなふざけた話」をちゃんと論駁するのは大変骨が折れるのも事実なのだ。そして僕は大学の卒論で、人権の根拠をいかにしてカントから脱却させるかというテーマで書いた。哲学などやったことはなかったが、論証すればいいだけだし統計の知識もいらないから簡単な作業にも思われた。しかしやはりなかなか大変だった。

 

 僕ら哲学者はいかにして植松君の思想を論駁できるであろうか。僕の理論自体は和辻の「間柄的人間存在」というものに根差している。つまり、我々人間はそもそも孤立的存在ではなく連関しており、その連関性故にただ個人の内的な「理性」というものではなく、むしろその連関性を断ち切りマイナスに無限とも思われる効用を社会の一部にでも生じさせることは「総効用」という概念からすればマイナスでしかないという論理展開だった。そして我々人間はその「マイナス無限の効用」というものを忌避するが故に「人権」という概念をつくり出さざるを得ない存在であり、ロックもカントもそれをキリスト教的、個人主義的な論理によってパッケージしたに過ぎないというものである。

 「マイナス無限の効用」というものについてはもちろん功利主義をまじめに研究している人間からすれば非常に未熟な概念だと思うし、いつかここの部分については先行研究をちゃんと読まないといけないと思っているが、ここでは少なくとも僕のいまの仮説として書いておく。

 ある行為によってもたらされる効用を何らかの数値で表されると仮定する。例えば植松君が障碍者を殺したことでもたらされるプラスの経済的効用が100だとしよう。日本の国民が1億ならば、ひとりあたり100万分の1だ。しかしながら、大切な家族を殺された人間の効用は何だろうか。もしそれを苦に抱えきれない苦痛を感じ、自殺でもするとすればその値は(効用を主観的なものとすれば)マイナスに無限であると考えることは出来ないだろうか?経済的な効用、いや心理的な効用でさえもプラスに無限であることは考えづらい(幸せが過大過ぎて死ぬものはいない)のであるから、純粋に足し算すればマイナス無限ということになる。

 それなら総効用から見ても実は彼の行為は「経済的」な側面のみにとどまっており、その経済学的な総効用がもたらすと仮定するところの人間の主観的な幸福度というものについてはむしろマイナスの値を示すと考えることが出来る。それならばもはや彼のいう「合理性」というのは非常に浅はかなものであると考えることが出来る。

 行動経済学では人間は同等のリスクの下で同等の値のメリットとデメリットを提示されれば、デメリットを忌避するらしい。先ほどの「人権」はまさにこのデメリットを忌避する行動の一つとして考えられるし、その「忌避」が起こる根本的な人間の存在構造は、人間が本来的にばらばらの存在ではなく主体的・間柄的に連関しており、「自分の大切な人」を失うことをとてつもない痛みとして感受しているからに他ならないのではないだろうか。

 つまりこうした意味で、人権とは「神から与えられるもの」でも、「理性を根拠として享有しているもの」でもなく、人間の緊密な間柄のネットワークともいえるものの中で人間同士が無数に「与え合う」という形で存在すると考えられるし、これがもっとも現実的な人権の存在説明となるのではないだろうかと思う。

 ある意味で間柄的人間存在を前提としながら功利主義的なフレームを借りた説明ということになる。

 

 以上のことは僕がこれから死ぬまでに定立したい次世代の人権理論の未熟な原型に過ぎない。でも僕らは次世代の人権をいかにしてたてることが出来るのかを真剣に考えないといけないと思う。

 これまで「先進国」といえば西洋諸国であり、そこにはキリスト教的な前提があるからこそカント的な前提を何となく拡張した曖昧な人権概念であってもまかり通っていた。でもこれからはそうした背景を持たないインドや中国が先進国となり、彼らがGoogle のような大企業をつくり、彼らの労働条件などをつくれる状況になるだろうし、その時にキリスト教的な前提を持たずとも説明のつく人権概念がなければ、生産性のないものには人権がないという非常に粗野な認識がまかり通るかもしれない。

 実際にいまの日本ですらそうなっている側面があると思う。そうした意味で植松君の議論というのは非常に重要であるし、専門家こそこうした議論に対して、いかに真正面から反駁するかを考えなければならない。

 カントから既に200年が経った。僕らはもうカントに甘んじているわけにはいかないのだ。