ひのきの棒(Lv.1)@文系博士院生の社会人

社会人として働きながら、博士課程で哲学を研究しています。専門は和辻哲郎の存在論。文系博士が生きていける社会をつくりたい。

文系院生はビジネスには使えないのか?

こんにちは、ひのきの棒(Lv.1)です。

 

 ここでは基本的に文系の院生とビジネスという領域を架橋していくようなものを書きたいと思っています。というのも、一般に「文系院生」は「理系院生」と比べて数が非常に少なく、またそれ故になかなか正しいイメージも持たれていないことが多いからです。

 面白いことに、一般的な社会人のみならず、文系院生自身も自分のことを理解していないケースがしばしばみられます。文系の院に進めば就職はめちゃめちゃ不利になるとか、理系と違って自分には何の強みもないとか、就職したら研究は出来なくなるとか、そういう誤解は文系院生にしばしばみられます。

 僕は大学院に所属していて、そういう院生は非常にもったいないなと思っていました。僕が接した院生たちの多くは、修士であれ博士であれ、実務能力もコミュニケーション能力もちゃんとあって、その上厳密なクリティカルシンキングロジカルシンキングの訓練も受けていて、そして基本的な資質として「粘り強い」という要素を持ち合わせているからです。

 大学院にいると色々とネガティブなことを聞いたりもします。僕らの場合大体は大きなニュースになる前に情報は入ってくるのですが、例えば「〇〇先生の弟子が自殺した」とか、有名なのだと九州大学のODの人が研究室で火をつけて自殺したとか、そういう類のものです。

 高い能力を持ち、努力も出来るものが、社会と学生の相互の誤解によって生きる道を断たれるとすれば、それは非常に奇妙な話で、もっとドライな言い方をすれば「社会的リソースの無駄遣い」でしかありません。

 こういうブログを始めたのも、自分が社会人と院生の掛け持ちをしているのも、そういう不幸を出来るだけなくしたいという想いからです。僕はせっかくこの世に存在しているのに、絶望して消えていく生を見るのには嫌気がさしたのです。

 

文系院生に対するかつての僕の偏見と院生の類型

 それでは文系の院生ってどんなイメージがあるでしょう。文系といっても、文学系・思想系・社会科学・心理学など色々ありますが、今回は僕が所属している思想系(哲学)についてお話ししましょう。

 僕はもともと慶応の商学部から京大院の文学研究科に行きました。ある意味、一番「ビジネスっぽい」ところから正反対のイメージのところまで行ったわけです。でも学部による「イメージ」なんて結局イメージです。何の足しにもなりません。

 昔の僕は「思想系」というと、高校時代のオタクの友達を思い浮かべていました。何だか早口で、僕がよく分からない好きなラノベの話をされ、当時の僕はなかなか対応に困りました。

 でも実際に院に行ってみるとそういうのとは違いました。そういう類の人は、もちろん中には院生にもいますが、意外と学部段階で消えていきます。研究者とオタクは違うからです。

 

 哲学系の大学院生には3つの種類があると思います。

  1. 「特定の哲学者が好きだから研究していたい」ファン型
  2. 「この問題の原因を突き止めたい」課題解決型
  3. 「よく分からないけど哲学から逃れられなかった」実存フルスロットル型

 僕は2と3のハーフですが、「大学院」という場所は、どのタイプであっても2の要素を持っていないと生き残っていけません。何故なら哲学の勉強は「カントが好き!」だけでもできますが、哲学の研究は「カントの問題はどこにあるか」のように、その哲学的な問題にまで迫り、それを批判することでしか書けないからです。(「アポリア」と言います)

 そして一般的にイメージされる「文系院生」は1のタイプに近いのではないかと思います。それはアカデミアの人間からすればアマチュア(愛好家)であって、プロではありません。なおそれが本当に正しいのかどうかはまた別の際に論じます。

 

ビジネスで求められる力と院生の能力は完全にマッチする

 僕は渋谷で事業をつくっていますが、しばしば別部署の同期から「ゼロイチっていいなあ。かっこいいよね」と言われます。

 「ゼロからイチをつくる」って確かにかっこいいですよね。でも本当にゼロからイチなんて出来ると思いますか?無理です。ここでの「ゼロ」はあくまでガウス定数みたいなもので、0≦x<1の範囲でまだ形になっていないものを「イチ」にしていく作業なのであって、「発想」とか「アイデア」で世界を変えられるとか言うのは物事の道理を何ら分かっていません。

 iPhoneを作るには、それまでの膨大な技術の蓄積、デザインの蓄積、エンジニアリングの知見、そしてそもそも「電話」という発想源が必要で、こうしたものを自己の美学や市場のニーズと掛け合わせることでiPhoneを生み出すことが出来るのです。そして多くの人がいきなり「新しいものを作れ」と言われてアタフタするのは、こういうことが分かっていないからです。新しいものを作り慣れていない人間は「新しいものをどうやって生み出すか」なんて知っているはずがありません。

 しかしその一方で大学院で院生がやることは「いままでなかったテーゼを提出する」ということで、これは「新しいものをつくる」ことを意味します。そしてそのために先行研究を調べ、その先行研究で何が問題となっているのかを掴み、そしてその課題をどのように解決し、その解決までの膨大な理路を一つの論文というものに落とし込み、なおかつ自分の研究人生の一つの踏み石とするのです。これをビジネスと対比させるとこうなります。

  • 先行研究調査=市場・競合調査、ニーズ分析
  • 文献読み込み=既存自社サービスの強み・弱みの分析
  • テーゼの仮説立案=サービス案
  • テーゼの証明=事業戦略立案・PL
  • 自分の人生における論文の位置づけ=サービスの理念とビジョンの設定

 要するに言い方とやっていることが違うだけで、使っている脳の部分はほぼ同じです。もちろん違う所はありますが、大枠でいえば結構似ているんです。こうしてみると、どうして大学院生が就活で不利だと思うのか、よく分からなくなりませんか?

 そもそも「課題解決(Problem Solving)」というのは、哲学(分析系)から生じた手法ですし、クリティカルシンキングだって哲学の手法をビジネスが転用しているだけの話で、むしろ哲学の人間は当たり前だからわざわざ「クリティカル」とか言わないだけです。

※ちなみに有名ではありますが、「批判」というのはドイツ語にすれば”Kritik”ですが、この意味は「吟味」に近いものです。これを「非難」と同義で扱うのはやめましょう。

 

 ここまで読んでいただけると分かっていただけるかと思いますが、文系院生であることは全く不利ではありませんし、採用にあたって余計なイメージを介在させるのは何の益にもなりません。むしろ重要なのは、「自分は普段何に取り組んでいるのか」を言語化し、それを相手が理解できる言葉に翻訳することです。それが出来れば何も怖くはありません。