哲学研究と哲学者研究との関係について
こんばんは、ひのきの棒(Lv.1)です。
今日は僕が特に修士の頃に気になっていた、「哲学研究」と「哲学者研究」について書こうと思います。
哲学研究と哲学者研究
哲学研究だと「偉い(好きな)哲学者を一人選んで研究する」ということがメインになるのですが、こうしたことに対して哲学の内外から「これは哲学じゃなくて文献学だ」のような批判がされることがあります。
そうした批判に対して、「一人のテクストも解釈出来なくてはそれ以上のテクストなど解釈できるはずがない」といった反論や、「解釈自体が一つの創造的営みである」といった反論があり得ます。
ただ僕自身はそもそも学部時代だと財政学だの社会保障だのをずっとやっていた社会科学人間だったので、そういう反論に何ら意義が見出せませんでした。
しかし実際に修士課程に入り、修論を書いていった中で、自分の中で「哲学者」を研究することの一定の意義と、そしてやはりいままで哲学者研究においてなされていたことの物足りなさが浮き彫りになってきました。
僕のブログを読んでくださる方の中には実際に研究をしている人もいると思いますが、一体どうして誰かを選んで哲学するのでしょうか。例えば僕なら「和辻はこの「間柄」という概念で何を意味しているのか」という問いを立てるとき、そもそも何で僕は「和辻にとっての間柄」を研究しなければならず、自分の哲学を直接論じることが出来ないのでしょうか。
例えば自然科学であれば、「和辻(1949)は~という概念によって~という仮説を立てているが」のようにサラッと書いてしまい、むしろその仮説をどう再構成するのかという議論の方が重視されます。しかしながら哲学論文の多くはあくまでも研究対象の思想自体であることが多く、それに対して自分がいかなる立場を採るのかという、いわば間接的にも見える形で論じることが多いです。
どうして哲学者を研究するのか
僕はこうしたありかたをそのまま受け入れることはありませんが、一定の意義はあるものと考えています。
僕が修士の終わり頃からいままで(といっても数か月ですが)考えているのは、哲学者を研究するのはその人の哲学の一体どこに限界があるのかを見極めるためだということです。どの哲学も時代的・地域的・身体的な有限性がある中で哲学をしているわけであり、その哲学のどこかにいまでも通用する普遍性があれば、逆にどこかに限界があると考えるのが妥当な推測だと思いますし、実際にどの哲学者もそうだと思います。そうでないのなら哲学をやる意味は全くありません。
しかしそうした限界点を見つけ出すというのは非常に難しいことで、
- その哲学の体系全体がどうなっているのか
- 体系の限界はどこにあるか
- どういった理由によって限界であると言えるのか
の三点が必要なのですが、そもそも1の段階で哲学者によって解釈が違うと2にまでたどり着くことが出来ないわけです。そして一般の哲学研究だと、1が主要な問題とされ、2と3の段階は比較的影が薄いのですが、哲学(学問)において重要なのはアポリア(難問)を乗り越えることですから、僕は出来るだけ哲学者を研究する時には2と3にまでどうにか届くようにしています。
以上の考えはあくまで僕の私見ですから参考程度で良いのですが、ただ自分のなかで「どうして自分はこの人を研究しているのか」「哲学史においてこの人はどのような意義を持つのか」ということを考えておくことは絶対に必要だと思います。
アポリアを乗り越えるために必要な作業
いままでの話は「限界点を見極める」ということですので、あくまでも先行研究分析でしかありません。基本的にはいままでの部分だけでも哲学論文になるわけですが、やはり僕としては哲学を学たらしめるものとして、それが現代的な科学的水準や、可能であれば関係する統計のデータなどを添えたうえで、実証的に論じる努力をすべきだと思います。
もちろん思想によってはそういうものが困難ないし不可能なものがありますから、そうした部分にまで実証性を求めることはむずかしいですが、しかしながらそうした手法を一切放棄するのはまったく学問的態度とはいいがたいと思います。
正直僕は経済学から哲学に来た時に、非常に「気楽だな」という印象を受けました。自分の考えに合う哲学者を引き合いに出しながら、実証性を完全に無視して自分の思想を論じれば良いからです。経済学など社会科学では、どれだけ確からしくても統計がなければできませんし、一定の公理のもとでの理論モデルから導かないと論文にはできません。
この「気楽さ」は哲学にずっとついて回っていると思いますが、やはり僕は実証的な手順を踏める箇所については哲学も実証的たらんと努力すべきだと思いますし、それによって哲学の独自性と、これまでの哲学の限界点が改めて明らかになるのではないかと考えています。