コミュ障はコミュ障でいい
こんにちは、ひのきの棒(Lv.1)です。
突然ですが、皆さんは自分のことを「コミュ障」(コミュニケーションに何らかの障りがある人)だと思いますか?
普段の僕は微妙な所なのですが、この前出社してみるとやっぱり自分はコミュ障なんじゃないかと思うことがありました。
僕には信じられませんが、世の中には「会社に行くほうがみんないるし楽しい」と思っている人や、「実際にあった方が話しやすい」とか「実際に会った方が相手のことが分かる」とか思っている人がいます。
一体何を根拠にしているのか知りませんが、そういう人はその時点で自分が見ている世界が非常に狭いことに気付くべきでしょう。
世の中には「みんながいる」場所には行きたくない人なんてゴマンといますし、対面だろうがZOOMだろうが、普通は相手の反応は分かるし、本気で隠すのが上手い人は対面だって分かりません。
僕はといえば、正直営業の時や別部署の人と話すくらいだったら異常に愛想よくできます。敬語だって変な使い方はしないですし、表情も他人より読み取るのは得意な方だと思います。でもそれじゃ出社して、会社の人とずっと一緒の空間で仕事している間もずっと出来るかと言えば、完全に「NO」です。
例えば会社に8時間程度いると仮定して、その間ずっとスイッチを入れていればとにかく疲れますし、またいきなりMTGになった途端スイッチを入れても気持悪がられるので、スイッチを切り替えるタイミングというのが難しく、結果としてスイッチを切ったままでいることになってしまいます。
いわゆる「コミュ障」にはいくつか種類がある、というのはネットでもしばしばいわれていることだと思います。
①本当に何を考えているのか分からないからコミュニケーションに難がある
ひともいれば、
②「正解」の振る舞いは分かっているが、それを実行するのに他人よりも体力を使う
ひともいます。他にも
③ただただ緊張してしまい、言葉が中々出てこない
とか、あとは逆に
④相手の表情や空気を読まずに話しまくってしまう
みたいに、一見コミュ障じゃなさそうな人もいますね。
タイプに分けるなら僕は多分②とかなのかなと思います。
根本的に自分が他人に合わせなければいけない、というのが嫌いなので、MPを使うというより「エネルギーを相手に割く気にならない」と言った方が正確かもしれませんが。これはあまり良くないこととされるイメージはありますが、僕みたいな人間にとってはコミュニケーションにおけるエネルギー量は、相手が恐怖心とか抱かない限りは減らしていっていいと思います。
ビジネスマナーとかは正直な所、皆がそこのエネルギー量を増やそうとしたがために、不要なまでにインフレしてみんなが逆に窮屈になっているという典型的なパターンなのではないでしょうか。
新人研修とか昔受けた時に思いましたけど、マナーというものは本当にビジネスで相手を減点評価するためにしか存在しないのですが、そういう外面的な印象ばかりを指導して中身を見ない、そもそもそのマナーが「どうして窮屈なのか」すら反省出来ない、というのは、一部の界隈の悪しき風習だと思います。
コミュ障はコミュ障だろうと、必要なことを伝え、必要な情報を得て、分からない部分は質問するという所が出来ていれば必要以上にコミュ力ある人間の振る舞いを真似しなくてもいいです。それよりもむしろ、自分のような「コミュ障」という性質を利用し、そういう一定数のコミュ障がどういう環境であれば居心地が良いのか、もし相手がコミュ障ならどういう接し方をすれば居心地が良いのかを提示することの方が重要だと考えています。
例えば口頭で話すよりも文字情報の方が良いのであれば、Slackの中にそれぞれが自分のチャンネルを持ち、それにプロジェクトのメンバーを入れておき、Twitterのような形での呟きをメインにしつつ、連絡などはメンション付けたりDMすればいいと思いますし、いまのリモートワークの方が楽な人にはそのままリモートを維持すればいいわけです。
いまはどうしても既存のビジネスに「戻す」ということを意識してしまいがちですが、一義的な「コミュ力」ばかりを見て、一つの指標で人間を評価するのではなく、せっかくリモート含めて社会実験が出来たわけですから、多様な人材をいかにして多様に開花させていくのかという方向にシフトしていくべきかと思います。
トランクルーム系のサービスをいくつか整理・比較しました
こんにちは、ひのきの棒(Lv.1)です。
前回は僕の多すぎる本を片付けるのに活躍したサマリーポケット を紹介したのですが、
個人的に気になったので「トランクルーム」に関係したサービスをいくつか調べてみました。
トランクルームって何やねん
って話から確認のためにしておこうとおもうのですが、要するに「貸倉庫」です。
特に都会だとお金がないと広い家に住むのは難しいわけですが、研究者の方、読書が好きな方はどうしても本の量が多くなってしまうと思います。
本が多すぎると、床が凹む(もしくは抜ける)、家族の視線が厳しくなる、生活スペースがなくなる、可愛い猫に破壊されるなどの様々な被害が生まれるので、
「しばらくは読まないかな」という本についてはトランクルームに預けてしまう方が安全かつ安価だと思います。
いらすとやって楽しいですね
トランクルームにも2種類ある
さて、しかしトランクルームといっても2種類あります。一つ目は実際にトランクルームを借りてしまい、自分で預けたり取りに行ったりするタイプです。そしてもう一つは宅配型のトランクルームで、こちらは段ボールなどで預けてしまい、必要なものがあったらアプリなどで配送してもらうタイプです。
それぞれのサービスには長所と短所があるので、以下で簡単に紹介しておきます。
(1)現地型トランクルームの特徴(大きいもの・雑多なものを入れたい人)
長所:配送の待ち時間がない、大型のものも入れられる、預けるものの種類に制約がない
短所:取りに行く必要がある、価格が比較的高い、住む地域によって使い易さが変動する
長所としては自分で取りに行ける事、車やバイクのような大型のものでも大丈夫なこと、倉庫が与えられるだけなので好きなものを突っ込める、くらいが挙げられます。車を持っている人ならすぐに取りにいけますし、最近だと都心の近くにもあるので遠くに行く必要はありません。(例えば渋谷駅から徒歩3分のところにもあります)
趣味でDIYする人とかはパーツなどが溢れてしまうこともあるので、そういう方はこちらの方が良いかもしれません。
ただ短所としては、やはり現地に取りに行く手間はかかってしまいますし、立地が便利な所は価格も少し高くなってしまいます。渋谷駅から徒歩3分の倉庫だと、0.5帖で約1万円、4帖だと6万円以上かかりますので、ある程度余裕のある方に限られるでしょう。
現地型のサービスとしては:キュラーズ 、ハローストレージ 、ドッとあ~る
あたりが大きいところらしいです。ちなみにそれぞれの特徴ですが、
ここは清潔でお洒落な設備と小さいロットから申し込めるところが特徴です。内装はこんな感じ↓になっていて、価格は1ボックスあたりならいまだと3850円(現在3割引き)と安くなっています。
ほかにも「レディースフロア」というものまであり、出し入れをあまり見られたくない人や、クリーナーなど色々なグッズを使用することが出来るので、自分の倉庫をいつでも清潔に維持できます。
その内装・管理の自信からか、いまはWEBで見学申請出来るらしいので、トランクルームというものに興味がある場合は覗いてみてもいいかもしれませんね。
倉庫の数と種類は日本で一番多い(全国に1,900物件 96,000室以上)ところで、さっきの「渋谷から徒歩3分」というのはここの会社です。
地域・倉庫によって価格にはバラツキがあるのですが、屋内型、屋外型、トランクハウス24、バイクの4種類があるので、車とかバイクを入れることも、引っ越しの時にどうしても入らないものを全部突っ込むことが出来ます。
店舗数が非常に多いので、他社だと難しい県であってもこの会社ならルームが設置してある、なんてこともあります。また不要になったものはそのまま売却してくれるサービスもあるので、大きくて処分が面倒な場合も利用してみると良いでしょう。
最後の大きいのがドッとあ~る(.R)です。
ここはルームの数ではハローストレージに少し遅れを取りますが、九州に拠点があるので九州に限れば非常に強みがあります。種類としてもハローストレージに近いので、九州にお住みの方はこちらでもいいかもしれません。
(2)宅配型トランクルームの特徴(衣類・本など特定のものを手軽に整理したい方)
長所:価格が安い、家にいたままで全部出来る、自分で倉庫を管理する必要がない
短所:あまり大きいものは預けられない、配送に一定の時間がかかる
長所としては、とにかく価格が安いこと(大体75%くらい安いのと固定の月額費が不要)、一切どこにも行く必要がないこと、そしてこれは地味に良いところだなと思うのですが、預けた中身の管理を会社が全部やってくれるので管理が楽っていうのがあります。ぼくは非常にずぼらなので、勝手に管理してくれるのは大変助かります。
短所としては、やはり(宅トラ以外は)段ボールでしか預けられないので、サイズや重量には制限がかかってしまうことが挙げられます。取り寄せの際に時間がかかるのは仕方がないですね。
宅配型のサービスとしては:サマリーポケット 、【minikura】 、宅トラ が代表的です
これは実際に僕が使っているサービスなのですが、まあとにかく便利ですね。詳細については以前のブログで紹介しているので是非読んで欲しいところですが、
1段ボール最低250円(/月)で洋服とかを預けられますし、本でも400円(/月)なので、とにかく手軽だし、本なら全部表紙の写真を撮って目録みたいにしてくれるので、整理の時に役に立ちます。
ここは「寺田倉庫」という貴重品など様々な物品の保管・管理を運営している所が出しているサービスで、何故かは分かりませんが「サマリーポケット」の物品の管理もここで行われています。
要するにサマポケにしようが【minikura】にしようが、管理をしてくれるのは「寺田倉庫」なのでどっちに頼んでも一定の収益は入るんですね(笑)
ただこの【minikura】の場合は物品が不要になったら、そのままヤフオクで出品してくれるので、売る予定のあるものを預ける方は、本の数十円だけ割高なのを無視すればこちらのサービスにしてもいいと思います。
最後の「宅トラ」は一つだけ少し変わります。ここはヤマト運輸と契約していて、段ボールに入らない家電なんかもカーゴに入れて預けることが出来ます。かなり大きなものも預けられるので、宅配型が良いけど大きいものがあるから困る、みたいな人はこのサービスがおすすめですね。
正直少し割高ですが、宅配型では唯一無二なので、もし気になる方はサイトをのぞいてみることをおすすめします。
まとめ
今日は少し長くなりましたが、色々なトランクルームを市場調査も兼ねて少しまとめました。このブログを読んでいる方はもしかしたら「宅配型」の方が人気があるかもしれませんが、宅配型といってもそこに特色を出して差別化できるのは面白いところですね。
本が多い人におすすめの「宅配トランクルーム」
こんにちは、今日は僕が最近一番気に入ってるサービスを紹介しようと思います。
元々このサービスはYoutuberをやってる友達と通話しているときに、「本が多くて部屋が狭い」と話した時に教えてもらったもので、実際に使ってみてなかなか便利だったので、この際みんなにも知ってもらいたいと思いました。
引っ越しと絶望
僕は研究している上に、気になった本を我慢することがかなり苦手で、いまの時点で多分2000~2500冊くらいの文献があります。以前の家ではあまり気にならなかったんですが、東京に引っ越したら部屋が狭くて絶望しました。下は引っ越し途中の写真です。
僕の引っ越し直後の絶望が伝わるでしょうか。この部屋には生活スペースが全くなく、布団すら敷ける状態じゃありません。むしろ本を敷いて寝ないといけないレベルです。半分以上の段ボールがすべて文献なので、重さもとんでもないことになっています。受け取りをお願いした後輩には静かに敬語で叱られました。
そんなわけで、僕はとにかく引っ越してからいままで、本を処理しながら生活スペースを確保しなくてはならなくなったのです。
サマリーポケット のシステム
さて、それでは実際にサマリーポケットがどういうサービスなのかを説明したいと思います。簡単に流れを説明するならば、
-
コースを選んで依頼する
-
段ボールが届く
-
段ボールに詰める
-
集荷してもらう
-
アプリで荷物を好きな時に取り出す(表示までは2~3週間ほどかかる)
というもので、要するに家に来てくれるトランクルームです。
僕は本を管理するための「ブックスプラン」にしましたが、頼むとこんな段ボールが届きます。
このダンボールは二重構造になっているので、本を入れても全然崩れる心配はありません。
アプリの管理画面では以下のように(これは公式の画像)本を管理してくれます。
このサービスの面白いところは、「ブックスプラン」といって本専用のコースを用意してくれている所です。このブックスプランは段ボール一箱400円(/月)で預けられるのでかなり安いですし、必要になったら何冊か取り寄せればOKです。 ちなみに取り寄せるのは一回350円なので、まとめて数冊取り寄せればいいでしょう。
これを使えば例えば2~3軍の本を段ボール5個分預けたとして2000円(/月)、そしてそれを月に1回取り寄せるとすれば、毎月2350円だと思ってもらってよいでしょう。広い家を借りる手間は全くありませんから大分楽ですし、洋服などが好きな人は季節によって夏服や冬服を預けてしまえばちゃんとクリーニングをした上で管理してもらえます。
僕はあまり服はないので預ける予定はありませんが、このサービスのおかげで大分助けられました。
ここまでで大分サマリーポケット の良さが分かってもらえたんじゃないかなと思います。僕は大分本棚も作ったのでこれ以上預けることはなさそうだなって感じですが、僕のブログを読んでる人は本が多い人が多そうなので是非お勧めです。
僕が好きな関口存男の文章
こんにちは、ひのきの棒(Lv.1)です。
以前作ったプラットフォームに少しずつ人が集まっているので結構喜んでいます。
いまは各大学の研究室にメールを送っているのですが、反応を下さる先生もいるので、やってみてよかったなと思っています。
さて、今日は関口存男というゲルマニストの話をしようと思います。
そもそも「ゲルマニスト」というのはなかなか珍しい言葉です。
彼の専門はドイツ語の文法で、ドイツ語の冠詞についてだけで3冊の大著を著している化け物中の化け物なのですが、その文体や表現が面白いことからも今でも根強い人気を(一部で)持っています。
彼は教鞭をとっていた当時は下の名前から「ゾンダン先生」(ドイツ語のSondernもモジっている)と呼ばれていたそうです。
ちなみに当時は大学の先生にドイツ語由来のあだ名をつけることが多かったらしく、哲学者の西田幾多郎は「デンケン先生」(”考える”を意味する”Denken”より)と呼ばれていました。
僕が関口先生を知ったのは高校時代、予備校の先生に教えてもらったことがきっかけです。その先生はクザーヌスを研究していたのですが、予備校の仕事の方が好きだったので研究ではなく予備校講師の道を選びました。その人が尊敬している人の一人が「関口存男」だったのです。
大学院に入ってしばらくすると、こんな本を書店で見つけました。
僕はしばらく関口存男のことを忘れてしまっていたのですが、関口先生はとにかくドイツ語をゴリゴリに習得していくことの重要性を説いていて、その姿勢の中には僕が最近サボりがちな学問全体にも通じる話があるのでいくつかご紹介したいなと思います。
※本文は現代仮名遣いに直す
一つ目は関口がいう語学勉強の仕方についてです。僕は以下のような言葉が好きです。
(「ドイツ人の精神文化の真っただ中に入るためにはどうすれば良いか」という問いに答えて)
先生 読むんですね。読めるようになるんですね。いや、読めるように「なる」なんてそんな馬鹿な話はない。読めるように「してしまう」のです。 暴力手段に訴えて。ドイツ語なんてものは、そんなに合理的に順序正しくやっていたのでは、決して進歩しません。初歩がすんだら、あとは暴力手段に訴える事です。理屈に合わない、どう考えたって出来る筈のない手段で行くのが一番です。たとえば、何でも好い、対訳書でも、翻訳でも、少し自信のある人は原書で、ぐんぐんぐんぐん一日に五十頁百頁ぐらいよめるまでは、一日も欠かさずかじりつくのです。
〔……〕
先生 あなたは見台というものを知っていますか?
生徒 書物を置く見台でしょう?
先生 それが抑々の間違いです。見台というものは書物を置いてよむためのものではない。見台というのは、ドイツ語の辞書を置いておくためのものです。
〔……〕
先生 本を読みながら「傍ら」辞書を引いたりなのするから駄目なんです。辞書を引くのが主で、本を読むのは副です。辞書を引きながら、その合間合間に書物を読むのです。だから書物を眼の下に置いて、少し横の方に辞書を置いて置くなんてのはその罪万死に値する。(22‐23頁)
何というか、パワフルですね。。。
僕自身カントを読むときは「カントを読もう」と思って辞書を脇に置いてしまいますが、それだと先生に激怒されるわけで、あくまでも読むのは「辞書」じゃないといけないんですね。
関口存男の面白いところは、内容もさることながら、僕が省略してしまった箇所を含めて文章のリズムもあると思います。
「読むんですね。読めるようになるんですね。いや、読めるように「なる」なんてそんな馬鹿な話はない。読めるように「してしまう」のです。」
のくだりなんて少しずつリズムを伸ばしていって、最後の「してしまう」でアクセントを持ってきているあたりセンスが非常にあるなあと思います。
二つ目は学問に対する姿勢に関するものです。
先生 知識欲というものは、食道楽とは違う! 何か変わった美味いものはないか……そんなのが知識欲ではない。山海の珍味を少しづつ数多くちょいちょいと舐めて見たい……そんなお上品なのは知識欲ではない。大きなカツレツを五六枚食って見たい! これが知識欲だ! (9頁)
「ちょっと興味があるから味見したいな」なんていうものは知識欲ではなく、「不可能かもしれない」と思うものになりふり構わずかぶりつくという姿勢こそ関口が学問に重要だと考えていることが分かります。
まあ僕自身は珍味もカツレツも食えるもんなら食いたいので、ある意味関口よりも強欲な気はしますが、手軽に教養を身に着けたいとか、他人に自慢するために物知りになりたいなんていうものと、知識欲とは根本的に異なるもので、もっと本能的な部分で欲するものだという主張には非常に見るべきものがあります。
ここら辺の箇所は、本で言えば前半の部分なのですが、この本の副題にもなっている「ニイチェと語る」はニーチェとブッダとキリストを鼎談させるというなかなか恐ろしいことをやってますし、他にも彼のドイツ語論が盛りだくさんなのでお勧めです。
日々の研究につかれた方、研究の世界から少し心理的な距離をおいている感覚のある方は、この本を読んで若々しいエネルギーみたいなものを感じるといいかもしれませんね。
営業のイメージが結構違ったので書いてみる
こんにちは、ひのきの棒(Lv.1)です。
この(Lv.1)という表記、ドラクエだと初期でもらうからとりあえず付けたという安直なものなのですが、ネットで検索するときに邪魔なんじゃないかと思いながらつけています。
さて、今日は少し雑記な感じもしますが、僕が就活していた時の「営業」イメージと、実際にやってみた営業が少し違ったので、ちょっとそれについて書こうかなあと思います。
僕は営業セクションではないのでゴリゴリの営業マンから見たら違うと思いますし、業界も違えば全く風土も違いますから一概には言えませんが、少なくとも僕から見た景色にも一定の妥当性があるのではないかなと思っています。
僕が抱いていた営業マン:何かすごいヘコヘコしてそう
哲学やってる人はみんな「営業」を志望するのを嫌がる傾向があると思います。というのも、ヘコヘコしてるイメージがあるし、めっちゃ酒飲んでノリが良くないといけないイメージがあるし、スーツ着ないといけないし、無駄にビジネスマナーに厳しいと思うからです。
他人(の多く)とそんなに話したくもないし、誰かにヘコヘコ頭下げるのも嫌だし、他人にノリを合わせるのが苦手な哲学の人間は基本的にこういう営業が嫌すぎて避けると思います。
実際業界や社風によってはまさにイメージ通りなので否定はできませんが、ただそれは営業というものにおいては非常にどうでもいい部分なのではないかと思っています。
実際の身の回りの営業風景
僕の周りの営業がどんなことをしているのかと言えば、そもそも「相手と会う」とか以前にアポイントをとらないといけないので、とにかくメールと電話(特に前者)を送り、アポがとれたらZOOMでミーティングして、相手の課題・要望と自分のプロダクトを突き合わせて買ってもらう、というだけです。
コロナ以降営業といっても現地に赴くケースは大幅に減りましたし、相手の企業も外に出るのは面倒なのかZOOMをOKする場合が多いです。ですから時間を決めたらその時間にルームに入って色々話せばいいので、身体的な疲労もそこまで感じません。
そして実際の営業中の風景も、「買ってください!」と頭を下げて買ってもらうということはありません。なぜなら何らかの製品を購入するというのは相手にもメリットがあるから生じることであり、相手の善意で買ってもらうわけではないからです。良いものであれば買ってくれますし、相手の課題・要望に合わなければどれだけ頭を下げたところで買うはずがありません。購入の可否は相手の好みではなく相手の会社の利益に基いて決定されるからです。もしも自分の好みで製品の購入可否を決定する人間がいればただの無能です。
話している相手はいつも整理した状態で懸念点を述べてくれるわけではなく、むしろ「なんとなくこれがいやだ」のようにぼんやりしていたり、そもそも自分でもわかっていなかったり、本質的には同じことを繰り返すことがあります。
チェスのような攻め合いは結構楽しい
先行研究整理にも似ていますが、相手が言語化したことはその要点を掴み、相手が意識出来ていないことは相手の様々な話から推論していく形で導出していくことが有効であり、こうした事柄は普段から難解な複雑な言語活動をしている人間からすれば非常にたやすいと思います。
また当然そうした課題に対して自分や自社がどのようにアプローチできるのかという、もう一方の方向でも考えなければならないわけですが、学会の質疑応答と同様既に表に出した情報やその余地からいかにして相手の疑問点を刺して潰して行くのかというところも重要なので、どちらかというと格闘技で間合いを詰めたり、チェスのようなイメージで捉えていただいた方がしっくりくると思います。
基本的に相手は何かを購入する場合には必然的にリスクを負うわけですが、そのリスクの理由として提出して来たコマの裏をついて差していくせめぎ合いは昔持っていた営業のつまらないイメージとは大きく違うものでしたし、もしイメージだけで嫌がっているのならば、社風や業界の雰囲気で絞っていき、職種はそこまで几帳面に選ばなくてもいいのではないかなと思います。
そんなわけで就活中の陰キャの皆さん、社風とか社員の態度ををちゃんと見ておけば、あまり部署は好き嫌いしなくても大丈夫ですよ(`・ω・´)ゞ
哲学研究と哲学者研究との関係について
こんばんは、ひのきの棒(Lv.1)です。
今日は僕が特に修士の頃に気になっていた、「哲学研究」と「哲学者研究」について書こうと思います。
哲学研究と哲学者研究
哲学研究だと「偉い(好きな)哲学者を一人選んで研究する」ということがメインになるのですが、こうしたことに対して哲学の内外から「これは哲学じゃなくて文献学だ」のような批判がされることがあります。
そうした批判に対して、「一人のテクストも解釈出来なくてはそれ以上のテクストなど解釈できるはずがない」といった反論や、「解釈自体が一つの創造的営みである」といった反論があり得ます。
ただ僕自身はそもそも学部時代だと財政学だの社会保障だのをずっとやっていた社会科学人間だったので、そういう反論に何ら意義が見出せませんでした。
しかし実際に修士課程に入り、修論を書いていった中で、自分の中で「哲学者」を研究することの一定の意義と、そしてやはりいままで哲学者研究においてなされていたことの物足りなさが浮き彫りになってきました。
僕のブログを読んでくださる方の中には実際に研究をしている人もいると思いますが、一体どうして誰かを選んで哲学するのでしょうか。例えば僕なら「和辻はこの「間柄」という概念で何を意味しているのか」という問いを立てるとき、そもそも何で僕は「和辻にとっての間柄」を研究しなければならず、自分の哲学を直接論じることが出来ないのでしょうか。
例えば自然科学であれば、「和辻(1949)は~という概念によって~という仮説を立てているが」のようにサラッと書いてしまい、むしろその仮説をどう再構成するのかという議論の方が重視されます。しかしながら哲学論文の多くはあくまでも研究対象の思想自体であることが多く、それに対して自分がいかなる立場を採るのかという、いわば間接的にも見える形で論じることが多いです。
どうして哲学者を研究するのか
僕はこうしたありかたをそのまま受け入れることはありませんが、一定の意義はあるものと考えています。
僕が修士の終わり頃からいままで(といっても数か月ですが)考えているのは、哲学者を研究するのはその人の哲学の一体どこに限界があるのかを見極めるためだということです。どの哲学も時代的・地域的・身体的な有限性がある中で哲学をしているわけであり、その哲学のどこかにいまでも通用する普遍性があれば、逆にどこかに限界があると考えるのが妥当な推測だと思いますし、実際にどの哲学者もそうだと思います。そうでないのなら哲学をやる意味は全くありません。
しかしそうした限界点を見つけ出すというのは非常に難しいことで、
- その哲学の体系全体がどうなっているのか
- 体系の限界はどこにあるか
- どういった理由によって限界であると言えるのか
の三点が必要なのですが、そもそも1の段階で哲学者によって解釈が違うと2にまでたどり着くことが出来ないわけです。そして一般の哲学研究だと、1が主要な問題とされ、2と3の段階は比較的影が薄いのですが、哲学(学問)において重要なのはアポリア(難問)を乗り越えることですから、僕は出来るだけ哲学者を研究する時には2と3にまでどうにか届くようにしています。
以上の考えはあくまで僕の私見ですから参考程度で良いのですが、ただ自分のなかで「どうして自分はこの人を研究しているのか」「哲学史においてこの人はどのような意義を持つのか」ということを考えておくことは絶対に必要だと思います。
アポリアを乗り越えるために必要な作業
いままでの話は「限界点を見極める」ということですので、あくまでも先行研究分析でしかありません。基本的にはいままでの部分だけでも哲学論文になるわけですが、やはり僕としては哲学を学たらしめるものとして、それが現代的な科学的水準や、可能であれば関係する統計のデータなどを添えたうえで、実証的に論じる努力をすべきだと思います。
もちろん思想によってはそういうものが困難ないし不可能なものがありますから、そうした部分にまで実証性を求めることはむずかしいですが、しかしながらそうした手法を一切放棄するのはまったく学問的態度とはいいがたいと思います。
正直僕は経済学から哲学に来た時に、非常に「気楽だな」という印象を受けました。自分の考えに合う哲学者を引き合いに出しながら、実証性を完全に無視して自分の思想を論じれば良いからです。経済学など社会科学では、どれだけ確からしくても統計がなければできませんし、一定の公理のもとでの理論モデルから導かないと論文にはできません。
この「気楽さ」は哲学にずっとついて回っていると思いますが、やはり僕は実証的な手順を踏める箇所については哲学も実証的たらんと努力すべきだと思いますし、それによって哲学の独自性と、これまでの哲学の限界点が改めて明らかになるのではないかと考えています。
「実学」についての誤解と弊害
お久しぶりです、ひのきの棒です。
長らく沈滞しておりましたが、今回は「実学」について一般に流布している誤解とその弊害について書こうと思います。
しばしば誤解される「実学」
一般に「実学」という言葉がどのように使われているのかをまず見てみましょう。
「社会生活に実際に役立つ学問。医学・法律学・経済学・工学など。江戸時代の蘭学、明治時代の職業教育などもさす。」(goo辞書)
みていただけると分かる通り、どちらも第一義では「実用性」が重視されており、逆に理論・学的体系を軽視しているものになっています。実際に皆さんがSNSなどで目にする「実学(的)」というのもこちらの意味になっていると思います。普段使いで用いる分にはこのように「みんなが正しいと思っている意味」で用いてもかまいません。言語の意味は変わっていくので、そこを批判することにあまり意義はないからです。
しかしながら、例えば福沢諭吉の『学問のすゝめ』を読むときにこうした辞書の意味を入れて読んでしまうと完全に間違えてしまいます。福沢諭吉の「実学」はそもそも(おそらく慶応に入った人間はみんな注意されると思いますが)”Science”の訳語であり、いまでいえば実証科学に近いからです。
実際に慶応法学部のサイトを見てみると、一年生は自然科学が必修となっているうえに、そうした自然科学科目にはすべて「(実験を含む)」と但し書きがあります。( https://www.law.keio.ac.jp/curriculum/ )そして実際に講義だと隔週で実験をして、簡単なレポートも書くことが義務付けられています。
このようにそもそもの訳語としての「実学」というのは「実証/事実を伴った学問」を指しているのであり、「実際に役立つ学び」などというものでは全くありません。
誤解が流布した弊害
しばしば他大学でも誤った意味で「実学」を謳ったり、「教養」と「実学」が対比されたりします。慶応自体にもビジネスのイメージが強くあるので、そうしたイメージを使ってあえて間違った意味で自分のビジネスをブランディングしている人間もいます。
しかしながらその結果、本来の「実学Science」が重視した科学的姿勢自体が「実学と対比されるということは実用的じゃないんだ」と勘違いされたり、学問というもの自体が一部の人間の遊びくらいに思われてしまうという事態が起きてしまいます。
そういう間違った使い方をする人は、「エクセルの使い方」だとか「書類の書き方」、「営業スキル」のようなものばかりを強調し、「教養なんて役に立たない!」と言います。しかしそれなら言っておきますが、「エクセル」は自動化できますし、書類は簡易化されますし、営業というのは課題発見能力と、相手の課題を自分のサービスの特長とマッチングさせて買わせるもので、通り一遍の「マナー」だとか「スキル」なんかで突破できるもんじゃありません。むしろ実証性や緻密な分析が必要とされます。「実学」の原義ごときも知らずに多用する人間に実証性があるとはまったく思えません。
僕は何人か「ビジネス講師」みたいなものを見てきましたが、彼らのレベルを計測する良い指標があります。それは「どのくらい事実に基づいているか」をファクトチェックすることです。
例えば学習関係でいえば、こんな図がよく引き合いに出されます。
ネットで「ラーニング・ピラミッド」と調べれば、こんな感じのピラミッドが山ほど出てくるのですが、僕はビジネス講師がこの図を出して来たら一発で「ハズレ」認定します。なぜならこのラーニング・ピラミッドには根拠が全く無く、その元と言われる図も大きく改変されているからです。(参考論文:
)
ほかにも「マズローの欲求段階説」をそのまま引用してきたら終わりです。こうした「有名な説」を、自分で調べも検証もせずにプレゼンしている時点でまったく見込みがありません。もしそういう科学的な根拠を少しでも入れたいのなら、Google Scholarで調べるか、有斐閣で良い教科書が大量に出ているので買って該当するところを読めばいいんです。ただもちろんこうしたものを「仮説」として受け入れて参考程度に紹介するならいいでしょう。(信憑性がないことにも触れないといけませんが)
こんな風に「実用」を強調する人は得てして自分では何も調べず、ビジネス書やネットの表層情報をうのみにしている場合が多いです。こういう人間に学問を馬鹿にされるのはいやになります。
正しい意味での実学とビジネスは対立しない
「学」を「学」たらしめるのはその体系性です。何らかの原理・原則があって、その前提のもとで展開するのが一般的(古典的)な学というものの本質です。何らかの知識を表面だけ受け取ったとして、その真偽を判定する根拠になるのは「体系における位置づけ」であり、そうした基礎体力の重要性がなければ先ほどのような過ちを犯しますし、出来る人間になればなるほどそうした表層的理解を見抜いてくるものです。
人間には限界があるのですべてをチェックできるはずはありませんが、しかしだからといって実証性と体系性を軽視するならば、それはただ根拠がない思い付きにならざるを得ません。
根拠のない思い付きだけでうまくいく真っ当なビジネスがもしあるならぜひ教えて欲しいものです。もちろん情報商材みたいなものは「真っ当」ではありませんよ。